4

 広背兼一(ひろせ・けんいち)は普通の大学生だった。

 小中高の学校では別段目立つ存在だったというわけでもなく、成績も普通で、何かこれといった将来ビジョンもない。
 それこそ一般的な日本の学生として当然のように大学に進学した。
 そしてそのまま普通に就職活動をして普通にサラリーマンになるだろう。
 そう思っていた。

 その日もいつも通りの日常。
 大学に行って面倒臭い講義は代返を頼んで抜けて、そしてアルバイトに向かう。
 そんな在り来りの日常だった。

 心のどこかでは、何か面白いことは起きないか、非日常的なことを体験したい。
 そんな感情があったとしても、実際に送る生活は同じ毎日の繰り返し。
 そのはずだった。

 その日、唯一日常と異なることといえば、
 普段なら駅で人集りが出来ていようが、誰か急病で倒れたんだろうと、我関せずで行き過ぎるところを、
 わざわざ立ち止まり、野次馬の人垣の向こうを覗き見たことだけだった。

 普段はそんなに野次馬根性が旺盛でない広背兼一が、いつもとは違う行動をとったのは、
 たまたまの偶然だったのか、それとも運命という名の必然だったのか。
 それは誰にも分からない。

 ただ確かなのは、この日、広背兼一が持っていた価値観、『普通』という感覚は崩れ去り、
 新たな何か、別の人間になったような、今までとは別の精神を宿した広背兼一に生まれ変わったということだ。

 駅のホーム。
 野次馬の喧騒。赤き血溜まりと人間だったモノ。
 それを前にして広背兼一に言葉は無かった。

 人が、無情に、無惨に、そして無力に死ぬ瞬間をその目にしたことで、
 広背兼一のいつも通りの日常は切り裂かれ、還らぬものとなった。

 広背兼一は、一人の人間の全てが終わった様をただ見つめていた。
 何かしたわけでも出来たわけでもない。
 広背兼一は受動的にその光景を見るしかなかった。

 彼に出来たことといえば、その場に落ちていた白いコピー用紙で綴られた冊子を拾い上げることだけだった。

 この日の体験を切っ掛けに、広背兼一は数奇な人生を辿る。
 しかし、それはまた別のお話である……。



 広背兼一が『普通』を捨て去る数分前。
 西家数雄はコンクリートの階段を転がり落ちていた。
 硬い階段の角に体中を叩きつけられ、全身が焼けるように熱く痛い。

 本来なら、そのまま地面に伏して脳内麻薬が痛みを忘れさせてくれるのを待つところだが、
 身に危険が差し迫っている状況でそんな悠長な暇はない。

 自身に向け振りかぶられた金属バットが迫ったとき、西家の体は勝手に動いていた。
 それこそ生物としての生存本能が西家の体を操ったのだろう。
 咄嗟に手にしていた柳沢の小説を頭上に突き出していた。

 それが浦谷の視界を遮ったのだろう、
 彼の放った金属バットの一撃を、西家は階段を転がり落ちることで避けられたのだ。

 刹那の命拾い。
 金属バットはそのままコンクリートの階段に叩きつけられ、鈍い金属音が鳴り響く。

「くぅ」

 浦谷が苦悶の声を出す。
 思い切り地面を殴ってしまった反動がその腕を蝕んだ。

 痛みに耐えきれなかったのだろう、麻痺する手から金属バットがこぼれ落ちた。
 それが一段、また一段と階段を音を立てて転がり落ちる。

「浦谷、どうして……?」

 全身の痛みに耐える西家はそう唸るように言うのが精一杯だった。
 浦谷は答えない。返答の代わりに忌々しそうな目を西家に向けた。
 その視線の中、西家はゆっくりと立ち上がる。

 見つめ合うように視線を交わす二人。
 今にも爆発しそうな緊張が走る。
 急に襲いかかってきた浦谷の行動に、西家は未だに信じられない心持ちだった。

 もう一度声をかけようと西家が口を開きかけたとき、浦谷が動いた。
 直ぐに浦谷の意図が分かった。階段の下に転がり落ちた金属バットを拾う気だ。
 それを察知して西家も反射的に動き出す。

 バットと同様に階段を転がり落ちた西家の方が距離は近い。
 しかし、全身打撲により体が思ったように動いてくれない。

「クソっ!」

 西家は気合いの声を吐く。
 痛みを無視して体を捻り、足を振る。
 フットサルクラブの代表だった西家だ、反射的に手よりも足が出た。

 腹筋を無理矢理使い、足を振るう。
 フットサル歴は伊達ではなかった。
 浦谷がバットを拾おうと腕の伸ばしたその指先を西家の足が横切った。

 再びコンクリートの地面を転がる金属音。
 すんでのところで西家が金属バットを蹴り払うのが間に合ったのだ。
 バットは転がり続け、吸い込まれるようにホームの下へと、軌道へと落ちていく。

「Pぃっ!」

 恨みがましい声。
 まるで親の仇を前にしたような怒気がにじみ出ていた。
 発した言葉が親しい友人しか口にしない西家のあだ名であったのは、なんの皮肉だろう。
 それが余計に西家に畏怖を感じさせていた。

 体が自然に後退(あとずさ)る。靴底が擦る音を聞き、西家は自らが後退していることを自覚した。
 逡巡は僅かな間だった。西家は脇目も振らず逃げの一手を選択していた。

 一体なぜ浦谷に襲われないといけないのか。
 理由があるのか、ないのか。それすらも考える余裕が西家にはなかった。
 突然、友人に襲われた。その如何ともしがたい事実だけが西家に迫っていた。

 踵(きびす)を返して逃げ出す西家。
 もちろん浦谷はそれを追う。

 駅のホームには、比較的少ない時間帯とはいえ、電車を待つ人で溢れていた。
 電車の停車位置に並ぶ幾筋の人の列。西家はそれらの人の列をかき分けながら必死に逃げる。
 二人の追走劇に、ホームにいた人が次々と振り返える。

「待て! 西家!」

 浦谷の声が幾重にも並ぶホームに響き渡る。今度はあだ名ではなく名字であった。
 今更そんな呼び方の差異に意味はない。無論、待てと言われて待つ人間などいない。

 しかし、西家が人をかき分けて進むのに対して、浦谷は西家の裂いた人の隙間を抜けてくる。
 二人の速度の差は歴然としていた。
 後ろから迫る足音が次第に大きく聞こえてくる。西家は堪らず振り返った。

 そこにあったのは手。フットサルではキーパーをしている浦谷の屈強な手が西家の目前に迫っていた。
 それを振り払う間もなく、西家は上着を掴まれ、引き倒された。

 再びコンクリートの床に体を打ち据える。
 膝を打ったのか激痛が走った。
 痛みに呻きを漏らし、倒れた西家が顔を上げると、浦谷が高圧的な視線で見下ろしていた。

 いや、それだけならまだよかった。浦谷の手には、いつの間にか包丁が握られていた。
 肩から提げたスポーツポーチに入ってあったのか、ポーチは無造作に捨てられていた。
 もちろん、先ほどの金属バットも洒落にならない凶器だった。
 しかし、今度は一突きで人を死に至らしめることの出来る凶刃がそこにあった。

「P……」

 浦谷が小さく呟く。西家はそれを静かに見つめていた。
 少しでも動こうものなら刺される。そんな空気がひしひしと肌で感じられた。

 短距離だが全力で走った直後の荒げた息を吐く二人。
 その周りには、野次馬の人垣が出来始めていた。
 包丁を持った男が、倒れた男を見下ろしている。
 そんな状況でも割って入ろうとする者は誰もいない。
 いや、そんな危機的状況だからこそ、命を賭してまで自ら危険に飛び込もうという勇気ある者は現れなかった。

 降っていた雪はその濃度を増し、空を埋め尽くすかのように我が物顔で降りしきる。
 風に乗った一片がホームの中へと迷い込み、西家の顔に落ちて儚く溶けた。

「それを渡せ。……早く!」

 浦谷が繰り返す。それとは西家が逃げならも手放さなかった柳沢の小説だ。
 浦谷は執拗に、そのコピー誌に拘っていた。

「う、浦谷、なんで……」

 どうして、俺を襲う。
 どうして、この小説に拘る。
 そう問いたかった。

 小説に拘る?
 何か引っかかった。記憶という靄のかかった過去の認識全てが、突風に晒されたような感覚が西家を襲う。
 それはまるで白昼夢のように、突然西家に降りかかった。

 小説。
 死んだ柳沢。
 「6-2」。

 断片(ピース)は全て西家の中にあった。
 そして思い出す。

 あ、ああああああぁぁぁぁぁ!
 西家は心中叫んでいた。
 その叫びが声にならなくても、西家の表情に表れていただろう。

 西家の中で全てが繋がった。
 西家は思い出したのだ。
 なぜ柳沢が死んだのか。
 なぜ自分が柳沢の死因を思い出さないようにしていたのか。

 浦谷は柳沢と一番仲がよかった。
 そして西家と義田、それに士井は柳沢が死んだとき、一緒にいたのだ。
 あのとき浦谷だけが都合が悪く欠席した。

 そう、「6-2」の集まりで柳沢は死んだ。
 まさか、そんな。
 柳沢の為に浦谷は……。

「あれは事故なんだ!」

 西家は叫ぶ。声が上ずり、唇は震えていた。
 その声を無視して、浦谷は包丁を構えた。
 西家の額には嫌な汗がにじみ出していた。

「渡す。この小説も渡すから!」

 西家は手にしていたコピー誌を投げつけた。
 それが浦谷の顔に当たり、ホームに音を立てて落ちる。
 その西家の行動に、浦谷は眉一つ動かさず、ゆっくりとコピー誌を拾い上げた。
 その目線は完全に西家を離れ、柳沢の小説だけを捉えていた。

 小説を手放した西家には興味を無くしたのだろうか。
 浦谷はおもむろにページをめくる。その形相は必死そのもの。
 それに西家は若干の違和感を覚えた。

 どうやら浦谷はあるページを探しているようだった。
 不気味な沈黙が二人に訪れた。
 西家はその間に立ち上がり、体に付いた汚れを払った。
 なんとも言えない緊張が流れる。それなのに浦谷が必死にページをめくるのを待つ奇妙な間が不気味だった。

 目の前には包丁を持った友人。
 場所は人通りがいくらでもある駅のホーム。
 遠巻きに野次馬が二人の動向を見つめている。

 それは異様な場。異常な舞台。西家は、ついさっきまでそんな舞台に上がるなど考えたこともなかった。
 どうしてこんな状況になっているか。考えてもわからない。
 何か悪いことでもしたか。西家はそんなつもりなど微塵もない。

 しかし、西家の心情など全く無視で、事態だけが逼迫していた。
 どれくらいの間、浦谷が小説に目を通していただろう。
 西家の荒いでいた息はいつの間にか落ち着いていた。

 すると、浦谷が不意に顔を上げた。
 浦谷の口元が何か言葉を発するように動いた。
 しかし、目前にいる西家にも、よく聞き取れなかった。

「え?」

 西家が疑問の声をこぼす。

「おま、……した……か」

 浦谷の口元がまた動いている。

「何を言って」

「お前が殺したのか、P!」

 聞き間違いなんかじゃない。浦谷がそう言った。
 浦谷の目に異様な光が宿っていた。明らかに正気には見えない。

 次の瞬間、浦谷はなんの躊躇いもなく西家に包丁を突き出していた。
 反応出来たのは偶然だった。真っ直ぐ自分に向かってきた凶刃を西家は両手で押さえ込んだ。

 襲い来る異物感。
 体内を自分以外の何かが通り過ぎた。横腹を冷たい何かが。

 何が! そう叫びたかった。
 横腹が熱い。冷たかったはずなのに、一瞬で熱く変わる。

 焼けるように熱い。熱い。熱い熱い熱い!

 何が、となど問う必要もない。
 包丁だ。鉄の刃。鍛えられ、尽(ことごと)くの物を切り裂く為に拵(こしら)えられた刃が西家の横腹を裂いたのだ。

 もし西家が両の手で押さえ込んでいなかったら横腹どころではなく、
 鳩尾(みぞおち)を切腹のように横一文字に裂かれていただろう。

 不思議と西家は痛みを感じていなかった。
 あるのは血が溢れ出す熱さだけ。
 しかし、体に力が入らない。
 折角、押さえ込んだ包丁が難なく振り解かれ、浦谷はそのまま大きく振りかぶって斬り下ろした。

 宙に舞う赤い液体。
 ホームへ舞い込む風花のベールにとても映えていた。

 綺麗だ。とても綺麗だ。
 西家は自らが流した血が雪と共に舞い散るのを見て、場違いな想いを抱いていた。

 殺される。
 もうそれは分かっていた。
 なぜかそれに抗う気は失せていた。

 死を覚悟したとか、死を受け入れたとか、そんな殊勝(しゅしょう)な考えはなかった。
 ただ、もう考えるのが億劫(おっくう)だった。

 なぜこうなったのか。どこで間違ったのか。
 こんな最期を回避する術はなかったのか。

 西家はもう何も考えたくはなかった。
 そのとき、何がどうなったのか、西家は覚えていない。

 ただ、眼前に広がったのは、
 自分が突きだした両腕と、それに弾かれてホームから軌道へと落ちていく浦谷の姿。

「あっ」

 それは誰の発した声だったのだろう。

 その一秒後には、視界が別の色に変わっていた。
 目前を通り過ぎる何か。

 浦谷が落ちたはずの場所には既に別の鉄塊があった。
 車体の場違いな黄緑色。視界を流れるのは満員の乗客を乗せた車両。耳をつんざくブレーキ音。

 何も考えられなかった。
 癇に障るレールの軋みの音が消えたとき、西家の体は自然に動いていた。

 探した。
 視界から消えた友人を探した。

 クリスマスは二週間後に迫っていた。
 街は既にクリスマスムードで、真っ赤なサンタが白い髭をたたえてそこかしこに姿を現していた。

 街に深々と真っ白な雪が降る。
 全てを優しく包み込む雪。
 そして目の前にあるのは真っ赤に染まった赤き液体の海。
 何十トンという重量に引きちぎられて原型を止めない友人だったモノ。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっ!!」

 西家の声だけが冬の街にこだましていた。



第6章へ  トップへ戻る