第六章 「六ノ二は終わらない」

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「あら、遅かったわね」

 それはまるで家で家族を出迎えるかの如く軽いの口調であった。
 しかし、そこはアットホームな住宅ではない。ホームはホームでも駅のプラットホームだった。

 どうせ二、三分、早く駆けつけたところで何か変わるわけでもないのを知りつつ、
 律儀に走ってきた守井と富竹を出迎えたのは、機動捜査隊の安良智だった。
 すらりと伸びた紺のスーツパンツが、いつも通り凛とした独特の空気を醸し出していた。

「すいません、遅くなって」

 守井刑事は素直に謝ったものの、安良智が遅刻を責めているわけではない。
 そもそも警邏(けいら)を担当し、初動捜査にあたる『機捜』より早く現場に着くなど到底無理なこと、
 大阪南港に捜査に出ていた二人は尚更だった。

「遺体は?」

「あっち」

 駅のホームから少し離れた場所にブルーシートが被せられ、鑑識たちが集まっていた。
 そこは南大阪を代表する副都心、天王寺駅。
 手配中だった浦谷太郎死亡を聞き、担当の刑事と所轄の捜査員たちが集まっていた。

「とりあえず集められるだけは集めたけど、電車が低速だったから、逆に車輪に巻き込まれちゃったみたい。
 全部、破片集まったかしら?」

 安良智の言い様に、富竹が顔を歪ませる。
 人体を破片呼ばわりするなど、人権団体が許さない言動だろうが、形を失った遺体は人の面影など残っていない。
 それは惨状という言葉が相応しいものだった。

 電車の運行の為に、現場検証に時間をとるわけにはいかず、急ピッチで作業が進められていた。
 遅れて現れた捜査課の二人には出る幕はなかった。
 駅のホームを満たすざわつきが耳障りだった。
 それでもその原因である野次馬の列が出来ている以外、駅構内は平然を取り戻しつつあった。

「それで西家さんは?」

 守井が聞く。
 ぐるりを見回しても西家数雄の姿はなかった。

「腹を刺されたから病院よ。なんと言うか、都合のいい場所で刺されたものね」

 安良智の言葉に疑問を抱いた二人だったが、直ぐに思い当たった。
 ここ天王寺駅と言えば、直ぐ近くに大きな病院が二つもあるのだ。
 どちらも徒歩数分の距離。腹部に刺し傷を負った西家は、これ幸いと、病院に運び込まれた。

「病院には石口と塚狭に行ってもらってるから」

「さすがあの二人は早いですね」

「あなたたちよりは出来るコンビですもの」

 安良智に言われ、二人は苦笑する。
 石口と塚狭も、富竹たちと同じ捜査課の警察官である。
 班が違うものの、同じく比較的若手の刑事であったので、何かと比べられる存在だった。

 二人は現場を安良智たちに任せ、西家が運び込まれた病院へと急いだ。
 病院の受付で病室を聞き、足早に駆けつけてみると、西家が入院したという病室の前には見慣れた人影があった。
 安良智の話通り、石口と塚狭が病室に張り付いていた。
 二人は廊下の壁に背を預け、仏像のようにじっと立っている。

「グティさん」

 守井が声をかけた。
 富竹の『トミー』と同じように、石口も守井にニックネームを付けられていた。

 まるで声をかけられることが事前に分かっているかのように、石口は自然に向き直る。
 石口は暖房のよく効いた病院内でも濃緑のジャンバーを羽織ったままで、一見するとミリタリーマニアではないかと思ってしまいそうになる。
 その横にいる塚狭はスーツをカジュアルに着こなしていて、対照的な二人だった。
 守井と富竹とは違い、即席のパートナーではなく、以前から組んで捜査に当たっている。
 特に塚狭は石口を先輩として仰いでいて、捜査課でも有名な名物コンビだった。

「西家さんは?」

 富竹が遠巻きに聞いた。それに、我先にと塚狭が一歩踏み出して答えた。

「まだ処置中です。左腹部を刺されたようですが、内臓には届いていないそうで、縫合が終わったところです。
 全治二、三週間ほどらしいです」

「それじゃあ、今は?」

「さっき病室に入っていったところです。まだ医師が何かしているのを待っている状態です」

 つまり医師が西家を解放するのを待っているのだ。
 状況を把握し、現状でやることがないと分かった富竹と守井は肩の力が抜けた。

「それで、南港の方は?」

 塚狭の背後から石口の声が聞こえてきた。
 富竹と守井の二人は、先ほどまで捜査で南港の方に行っていたのだ。

「確かに西家さんが証言した服装に似ていました。年齢性別、体格も。
 ただ、かなり腐敗が進んでいて、顔は原型を止めていませんよ。
 あれじゃあ、似顔絵なんてまったく役に立ちませんね。
 一応、科捜研に顔の復元も依頼しましたけど。どうなるかは……」

 守井が言葉を濁した。それを石口も察っし、頷いた。
 皆まで言う必要もない。水死体とはそういうものだ。

「一週間以上海を漂えばな、そうなるのは当然だな」

「ええ、時期が時期だけに腐敗の具合ももう少しましだと思っていたんですけどね。
 やっぱり大阪湾の水温は冬でも高いんですね。
 死因は溺死と思われますが、詳しくは解剖待ちですね。
 情報通り身元を示す物は何も残っていません。
 念の為、西家さんに面通ししてもらおうかと遺体の写真を持ってきましたけど……」

 一同は沈黙する。
 ただでさえ水死体の遺体は原型を止めないことが多いのに、今回の場合は腐乱が進行し、魚に食われた状態であった。
 死体を見慣れた監察医であっても目を背けたくなるほどだ。

 富竹と守井が南港に行っていたのは、順中尾らしき人物が遺体で発見されたという情報が舞い込んできたからだ。
 南港のカーフェリー付き場に流れ着いた遺体が、手配中だった順中尾の服装に類似していたのだ。

「刑事さん」

 とても静かな声だった。声をかけられて、一同は一斉に振り返った。
 そこには西家の病室から出てきた白衣を身にまとった医師がいた。

「西家さんの担当になりました。剋田(かつた)です」

「これはどうも」

 四人を代表して、石口が剋田という医師の前に進み出た。

「刑事さん、事件の捜査が重要なのはわかりますが、廊下でそういう話をされるのは困ります。
 病院で死体だなんだと。妙な評判がたったらどうする気ですか?」

 剋田医師は表情を歪ました。
 それは本当に困っているというパフォーマンスだった。

「これは、すいません」

 石口は素直に謝罪した。病院に迷惑をかけるのは本意ではなかった。

「それから西家さんですが、傷の方は二週間もすれば退院出来るでしょう。
 ただ、精神的にショックを受けているようなので、しばらく様子を見た方がいいですね」

「少し話を聞くだけなんですが、無理ですか?」

 鼻頭に手をあて、少し考えた風だったが、剋田医師は首を横に振った。

「無理とは言いませんが、せめて数日様子を見てからにしてもらえますか?」

 駅で起こった事件のあらましは目撃者の証言から石口たちも大体把握していた。
 西家は友人である浦谷を突き飛ばし、浦谷は軌道に落ちた。そして不運にもそこに電車が進入したのだ。
 それを目の前で見た西家が受けたショックは想像だに出来ない。

「そうですね。それじゃあ、今日のところは退散します」

 石口の返事を聞いて満足したのか、医師は去っていった。

「いいんですか、事情聴取を遅らせて?」

 勝手に決めた石口の判断に、富竹が心配の声を上げる。
 階級的に石口も捜査方針に口が挟める立場にはなかった。

「ああ、課長には俺が報告するから。とりあえず、帰って状況整理だな。
 駅の現場検証もそろそろ終わってるだろう。塚狭はここに残ってもらえるか?」

「わかりました」

 後輩の明瞭な返事に石口は僅かに頷いた。

「よし、こんな事件さっさと終わらせるぞ」

 事件。
 義田と士井、そして順中尾と名乗っていた人物の三人が死んだ事件は、被疑者死亡という結末を迎えようとしていた。

 そうであっても、いつどのように殺したのか。動機は何だったのか。警察として調べることは山ほどある。
 しかし、もう誰も死なないだろうという安心が警察官たちを包んでいた。
 それは明らかな油断であった。
 彼らがその油断を後悔するときが来るなど、今の彼らは知るよしもなかった。



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