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「雪……」

 西家は駅ホームから見える空を見上げ呟いた。

 チラチラと舞う白き雪。
 夏暑く冬寒いと言われる大阪平野であっても、雪が降るのは年に数度と多いものではない。
 天を薄く白いベールが包み込む。
 それが風に舞い、まるでオーロラのように頭上を占めてなびいている。

 そんな幻想的な情景を前に、この程度では積もらないか、と西家は現実的なことを考えていた。
 実家に向かっていたときは、今日は実家に泊まろう、なんて考えていたが、夕刻まで実家で待っていても誰も帰ってこなかった。
 まさか、一言の連絡もなく実家の家族全員で温泉旅行にでも行ったわけでもないのだろうが、全く帰ってくる気配もなく、西家は待ちきれずに実家を出て、一人暮らしのマンションに帰ることにした。

 実家から帰るというのも、また妙な表現ではあるが、今、生活の実態は一人暮らしのマンションに置いているのだから帰るで間違いはない。
 一人暮らしのマンションに行くのも帰るであるし、実家に行くのも帰るだ。
 往復路が同じ「帰る」と言えるように、西家は実家に帰ってきた路線をそのまま、とんぼ返りする為、駅で電車を待っていた。

 このまま待っていれば、ダイヤ通りに電車が来る。
 しかし、帰ったところでどうなるというのだ。今回の事件の元となっているらしい小説を見付けても、警察でも名探偵でもない西家にはどうすることも出来はしない。

 そう、結局何も出来ないのだ。
 小説を警察に渡すか渡さないか、その二択しか西家に用意された道がない。
 だったら素直に浦谷との会話全てを警察に話して小説を渡せばいい。
 理性ではそう答えが出ていても、西家は本能的に警察に協力することに抵抗を感じていた。

 そんな悶々とした心を抱えたまま、西家はホームに入ってきた電車に乗り込んだ。

 何することもない乗車時間。ただただ体を運ばれる為の時間があまりにも手持ち無沙汰で、西家は実家で見付けた柳沢の小説を開いていた。

 電車の車内という公然の場でこの小説を読むというのも若干気は引けた。
 しかし、誰かに覗き見られているわけでもなく、そんな遠慮がちな心持ちは直ぐに消えた。

 実家で読んだときは流し読みをしていたが、改めて読むと、西家の知らない人物も主要人物として出てくるのに気付いた。
 どうやら実際の人物を登場人物のモデルとして書かれた小説であるので、その西家の知らない人物も柳沢の知り合いの誰かなのだろう。
 いくら友人でも、交友関係を全て把握しているわけではない。

 そして西家のよく知る人物たちも登場するのだが、少し妙だった。
 登場の仕方が急だった。というよりも、この小説は章が変わるごとに登場人物がガラリと変わる。
 長編小説ではなく、短編集のようにも見える。
 しかし、構成がむちゃくちゃで前後関係がよく分からない。そんな印象を受けた。

「この人たちがどんな関係にあるのか、分かりにくいよな……。
 そうか。俺の知らない登場人物たちのことを調べればいいのか!」

 車内だというのに、急に声を上げた西家に他の乗客から視線が集まる。
 刺すような冷たい視線に構わず西家は小説を読みふける。
 だが、水を差すように終点の天王寺駅が近付いていた。

 もっとこの小説を読み込んで犯人への手がかりを見付けたい。
 そう気持ちが焦るが回送になるらしい電車を降りないわけにもいかず、西家は阪和線の青い車体から、そそくさと下車をした。

 ホームに下りた途端、西家と同じく電車を降りる人々で人の波が出来ていた。
 大阪で天王寺駅といえばJRのターミナル駅。大阪駅の次に重要となるハブ機能をもった駅舎は、帰宅の通勤ラッシュにはまだ早いが、それでも駅ホームには人の気配が絶えなかった。

 西家は跨線橋(こせんきょう)を上がり、大阪環状線の乗り場へと足を向けた。
 続きが読みたくて、小説を見開きながら階段を下りていく。
 いい大人の西家を、行儀が悪いと注意する人なんていやしない。
 黙々と小説に目を走らせていると、ふと、何かが視界を過ぎった。

 『何か』というのも変な話だ。別段なんてことはない人混み。
 それなのに二度見しなくてはならないと脳が反応したのだ。

 突然の予感に、ゆっくりとぐるりを見回す。
 一体、何が見えたのか、西家自身にも分からない。
 だからこそ、慎重に目を配る。そして見付けた。

「浦谷?」

 見覚えのある後ろ姿。駅構内にある立ち食いそば屋から出てきた人影が目に入る。
 ラフなスエットパンツに冬場にしては薄いジャケット、そして肩から提げたスポーツポーチ。
 どこからどう見ても浦谷太郎だった。

 西家は咄嗟に声をかけそうになった。
 だが現在、浦谷は警察から手配を受けている身だ。人通りの多いこんな場所で声を出して呼ぶのは躊躇われた。
 どこか人目の少ない所で声をかけよう。そう考え、西家は浦谷の跡を追った。

 浦谷は全く辺りを気にしている様子はない。
 いや、逆にきょろきょろと辺りを気にしていたりすれば怪しさ満点なのであるから、普通に歩く方が注目を浴びずに済むので正解なのだ。
 ただ、その姿は警察から手配をかけられている人物の姿には見えなかった。
 まるでこれから買い物に行くような、ありふれた自然な姿だった。

 浦谷は僅かに顔を上げ、天井から下がる案内表示を見た。それが予定通りの確認であったように、その案内表示に従って階段を下りていった。
 そこは十七番、十八番ホーム。天王寺駅の中でも停まる電車が少し特殊な路線であった。
 JR難波に行くのか? それとも梅田? 西家は疑問に思いつつ、足を速めて階段に急いだ。

「っ!」

 階段に駆け込んだ西家は、足を止めざるを得なかった。
 浦谷が下り階段の中ほどから上を見上げていた。
 階段に飛び込んだ西家はその視線に晒される。

「……なんだ、Pか」

 浦谷は友人のあだ名を呟いた。それは安堵の声。
 どうやら浦谷は尾行の気配を感じ、追ってくる者を確かめたようだ。

 尾行といっても、西家が浦谷の跡を追ったのは駅舎内の僅かな距離だ。
 それも人通りの多い駅の中。それに浦谷が気付いたということに西家は驚きを隠せなかった。
 見た目は全く自然体であったのに、それほど辺りを警戒していたとは。

「浦谷。お前大丈夫なのか、警察とか?」

「さぁ」

 浦谷は自分には関係ない、と言わんばかりに適当な物言いだった。

「っておい。警察から追われてるんじゃないのか?」

「多分、そうだろうな」

「多分っておま……」

 西家の言葉が急に出なくなる。浦谷の顔が急に険しさを増したのだ。
 どこかの寺で見た不動明王象のようにも見える。
 それはあきらかに怒りに類する表情だった。

「P……。それ」

 浦谷の視線が、西家が手にしていた柳沢の小説に留まっていた。

「ああ、これか?」

 西家は自らの手中にある物に目を落とす。表紙が白いコピー紙。
 浦谷の友人でもあった柳沢が書いた小説。浦谷だって見覚えがあって当然の物だった。

「浦谷に聞きたいこ……」

 再び西家の言葉が浦谷の姿に止められる。
 浦谷は首筋に手を伸ばし、背中に手をやると、首元から何かを取り出していた。
 長い棒状の物。金属光沢を帯びた独特の円柱物。

「お前、どっからバット取り出してるんだ?」

 浦谷の背中から出てきたのは金属バットだった。
 一体、どのように背中に収納されていたのだろう。
 そもそも、なぜ金属バットを持っているのだろうか。
 それに、どうして今、金属バットを取り出す必要性があるのか。
 次々沸いてくる疑問の答えを西家は出せないでいた。

「お、おい。浦谷?」

 西家の問いかけに、浦谷は答えなかった。

 浦谷は金属バットを天に向けるように垂直に構え、じわりじわりと階段を上がってくる。
 西家の所まで後、数段。西家には状況が飲み込めない。
 しかし、現状がとても危険であることだけは認識出来た。

「P、それがどんな物か分かってるのか?」

 浦谷が問うた。

 それ。西家が手にした小説。柳沢が書いた小説。
 違う。浦谷の問いたいのはそんなことではない。
 その小説が今回の事件でどんな意味を持つのか。それを問うている。

「ああ、読んだからな」

「それをこっち渡せ!」

 浦谷が怒鳴り声を上げる。
 鬼気迫る表情。そのあまりの剣幕に、西家は思わず後退る。
 しかし、そこは階段。足が引っかかり西家はバランスを崩した。

 尻餅をついた西家が顔を上げると、目前まで浦谷が迫って来ていた。
 間近に見える浦谷太郎の顔は今にも飛びかかろうとしている猛獣のようだった。
 その並々ならぬ気迫に西家は唖然とした。

「浦谷?」

「こっち渡せ」

 喉を唸らせるような低い声で浦谷は繰り返す。

 いつの間にか、西家の背後に幾人かの人の気配がした。
 そこは人の行き交うホームへの階段。二人のただ事ではない様子に、行き交う者が足を止め始めたのだ。
 しかし、当人たる浦谷はそんなことお構いなしだった。

「早く渡せ!」

 呆然とするだけで何も出来ないでいる西家に、浦谷は痺れを切らしたのだろう。
 手にした金属バットを更に高く掲げた。

「おい……。何する気だよ……」

 西家は浦谷が本気であると本能的に悟っていた。
 今の浦谷の形相は、一週間前「西家に会えてよかった」と呟いた面影はない。
 今にも手にした金属バットを振り下ろしかねない。

「二人を……、殺したの、お前か……浦谷?」

 決して信じたくはない。
 浦谷が義田と士井を殺したなんて、絶対信じたくはない。
 それでも、今の浦谷を前にして、そう問わざるを得なかった。

 浦谷の眉が僅かに上がる。西家の問いに浦谷は表情を暗くした。

「何を今更……。そんなの、それを読んだんだったら、わかるだろ」

 浦谷が静かに言った。今までの剣幕とは対照的な静かな声だった。

 浦谷の返答の真意を、西家は量りかねた。
 僅かな沈黙が二人を包む。
 それとは対象的に集まり始めた野次馬のざわめきが耳障りだった。

 階段の下にあるホームに電車が入ってきたのだろう。階段を一陣の風が吹き上げる。
 風をまともに受けて西家は顔をしかめた。
 そして、その風は手にした柳沢の小説も巻き上げる。
 西家の手の中で暴れるようにページが舞うコピー誌。
 それが合図だったかのように浦谷が動き始めていた。

 西家には浦谷の動きが、まるでスローモーションのようにはっきり見えた。
 振りかぶられた金属バットは綺麗に弧を描き、西家の頭上に振り下ろされた。



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