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 そこかしこから聞こえる太鼓の音。
 同じようで一つとして同じものがない鼓動が、幾多にも重なって砂漠の空に舞い上がっていく。
 ある者は踊り。ある者は祝いの酒を酌み交わす。
 村の広場では神聖な炎を焚き、遙けき遠方から来た客人の幸いを願って謡う。
 それは神話の時代より伝わる詩。
 神々の祝福を旅人の行く先に届けんが為の唄。

 当初、歓迎されていないように見えたオーディ達一行だったが、長老が村に迎え入れることを決定したからには、彼らはクロファリ村の大事な客人である。
 翌日には、ささやかだが歓迎の宴が催されることになった。
 季節の祭り以外に娯楽の少ない砂漠の村だ。一度騒ぎ出せば留まることを知らず、ささやかだったはずの宴は村をあげての酒盛りになっていた。
 コルッシュもケルケも、村人に次々に酒を勧められ杯が乾くことはない。
 村人と共に踊りを披露していたミルミーアも疲れたのだろうか、村人の奏でる音楽に誘われ、うたた寝を始めている。
 宴の夜は更ける。
 村中に掲げられた輝薔薇の明かりが、砂漠の海に浮かぶ岩城を仄明く浮かび上がらせる。
 祭りの炎は天に向け上り、そして空からは流星が降りしきる。
 その光景をオーディは忘れたことがない。
 生まれ故郷のいつまでも変わらぬ姿を、オーディはずっと心に仕舞って生きてきた。
 歓迎の宴が催されても、オーディは村人を避けるように人集(ひとだか)りから遠ざかり、一人で宴の様子を静かに眺めていた。
 勿論、村を出たといっても四年前のことだ。会う人会う人、覚えている顔ばかり。
 ただ、皆に会っても何を話せばいいのかわからなかった。
 村人とのわだかまりがあるのは覚悟の上で帰って来た。しかし、実際に面と会わせてみると、言うべき言葉が見付からない。
 無理に話しかければ、たぶん狼狽するのはオーディの方だ。そうわかっているので、今は村人達を眺めているしか出来なかった。

 宴も終わりが近付いたとき、オーディは宴会が行われている広場を離れ、村外れにある小屋に向かった。
 クロファリにある建物もエルト独特の干し煉瓦造りだ。そして、どの建家も厚手の布で作られた帳(とばり)で厳重に出入り口が防がれている。
 風に舞う砂が入り込まないように、家を守る帳を織るのはそこに住む家人の仕事だった。
 その帳の平織は、夜灯りに重宝される輝薔薇(きばら)と並ぶエルトの特産品。浮かび上がるようなその細やかな幾何学模様が目に映える。まさに洗練された芸術品といえるだろう。
 広大な砂漠が占めるエルトの地では、砂漠に生える輝薔薇(きばら)か、砂漠でも生きていける獣であるウーパぐらいしか採れるものないのが実情だ。
 なので、クロエ族の民族衣装である貫頭衣も当然のように、その毛長の獣からとった毛糸の織物で作られている。
 オーディは小屋の前に立ち、まるでその多彩な模様に心を吸い込まれたかの如く、じっと帳を見つめていた。

「どうした。入らぬのか?」
 声に振り返れば、今一番会いたくない人物である長老が立っていた。
 一瞬、逃げ出したい感情に襲われたが、オーディはなんとか踏み留まった。
 自分と妹がつたない手付きで懸命に織り上げた帳を前に、逃げ出してしまうのは、妹に笑われる気がした。
「……まだ残ってたんですね」
 オーディはそっと帳に触れた。今、胸の内にある感情が単なる懐かしさであるのか、少し自信がない。
 たった四年だが、遙か昔のことに感じてしまう。
「中はそのままにしてある」
 長老は短くそう告げた。
 その意味を知り、オーディはまた泣きたくなった。
 今、目の前にあるのは、オーディとその妹のジェイジーが住んでいた小屋。
 小さく狭い、取り立てて何もない小さな家だが、オーディには思い出ばかりが溢れている生家だった。

 オーディは親の顔を覚えていない。オーディの両親は妹が生まれた翌年に砂漠で死んだらしい。
 その死に様をオーディは聞いてはいない。物心付いたときに既にいなかった人のことを詳しく聞こうだなんて思わなかった。
 四年前まで兄と妹の二人で懸命に生きてきた。村人も親のいない二人に優しくしてくれた。
 なにより、歳は親子と言うには離れ過ぎていたが、親代わりになってくれる人がいたから寂しくはなかった。
 そう、今、目の前にいる長老こそ、オーディ達の親代わりだった人だ。
 その妹と生活した家が目の前にある。オーディはまだ、その家に入る勇気がない。
 家に入ってしまうと涙が止まらないだろう。大声で泣き叫び、妹を生贄に出した村人達に恨みの言葉を吐き捨てるだろう。妹を人身御供に選んだ長老を呪い嘆くだろう。
 それが容易に想像出来てしまい、オーディは村に帰って来た今でも、自らの家だった場所を訪れるのを躊躇っていた。

「言い訳はせんよ」
 長老の声が僅かに震えていた。
「儂(わし)はこれまでに五人。地神に捧げた。皆の顔、よく覚えている。皆の声は今でも思い出せる。皆、村の大事な子らだった……」
「だったら!」
 長老の胸ぐらに掴みかかる。オーディの目には涙が溜まっていた。
 どうしようもない怒り。それをぶつける対象を見付けてしまった。いつでも殴れる所まで来てしまった。それが逆にオーディの心を焦らせる。
「どうして……どうしてジェイジーを選んだんだよ! 他にも……」
 オーディは長老を絞め殺さんばかりに胸ぐらを引き揺らす。
 それに長老は抵抗しようとはしなかった。悲しい目をして、怒りに荒れるオーディを見つめていた。
 オーディ自身、自らの吐こうとした言葉が信じられなかった。「他にも生贄ならいただろ」オーディはそう言おうとしたのだ。
 それは妹でなければ、誰かが死んでもいいという身勝手なものだ。その言葉を何とか飲み込んだオーディの心は、擦り切れるように痛い。
 見るからに辛そうな顔をするオーディに、長老は蔑むでもなく、同情するでもなく、切ない声で答えた。
「生贄に捧げるのは身寄りが出来るだけ少ない子を選ぶ。それが村の掟だ。ジェイジーはたった一人、兄がいるだけだった」
「それなら俺が、俺の方が生贄になればよかったんだ!」
 オーディの言葉に、何か言おうとした長老はぐっと言葉を飲み込み、しばらく逡巡して言葉を選んでいた。
「……お前は先祖返りをしてしまった。肌の色も硬さもクロエの民としては足りぬ」
「クロエの血が足りないから、生贄として不足だったとでも言うのか!」
 純血のクロエ族の肌は漆黒の色をしている。それに対してオーディの肌は浅黒い。
 クロセリカの町などでは混血が進み、肌の色が薄いクロエ族が多くいる所為か、オーディが純血のクロエ族にしては薄い肌の色をしていても気にする者はいない。
 しかし、地神の聖地に最も近いエルト砂漠の奥地で暮らすクロファリの民では事情が違う。
 クロファリ村の住民はオーディを含めて全員が純血のクロエ族だった。たった一人、先祖返りで肌色が薄くなってしまったオーディは目立つ存在だ。
 オーディの肌は色が薄いだけではない。クロエ族の特徴と言える鱗のように硬い肌も、純血のクロエ族と比べれば遙かに柔らかいものだ。
 刃を潰した斧とはいえ、キルビの一撃を腕で受け止めて見せたオーディの肌よりも更に硬い肌。それこそがクロエ族の最大の特徴だ。
 クロエ族は乾燥に強く、魔獣に襲われても生き延びることの出来る硬い肌があるからこそ、砂漠の荒野で暮らしていけるのだ。
 その肌のないオーディはどこまでいってもクロエ族としては半人前の扱いを受けてしまう。
「俺だったら死んでもよかった! こんな体だから砂漠でいつ死んでもおかしくなかったのに! なのに! そんな俺の方が生き残るなんて……」
 妹のことを思い出し、うなだれ歯ぎしりを漏らす。
 たった二人の兄妹、それが神へ生贄になるという無情が納得出来るはずがない。そんなオーディの目が突然見開いた。
「まさか……。生贄にする為に、両親が死んだ俺達を面倒見ていたのか! 始めから妹を生贄にする為に!」
 オーディの心に怒りの炎が灯る。烈火の如く燃えさかる恨みの感情。
 それを全て長老にぶつけてしまえるのなら、まだ気は楽になるだろう。しかし、戦士団『砂漠の雁』の一員として村に来た以上、オーディには責任と立場がある。十四の少年にもそれを自制する心があった。
「それは……、そんなことは、決してない。クロファリの民は皆、儂の家族だ。お前達の親が死ぬ前も後もそれは変わらんよ。クロエの特徴が薄いからとてお前を差別したことがないように、身寄りがない者が見殺しになっていいとも思ったことはない。それはお前も知っているだろう。ただ、地神へ捧げる者を決める村の掟に従ったまでだ。あの干ばつがなければ……」
 長老の言葉、嘘ではない。それはオーディが一番よく知っている。
 それゆえに、首を絞める勢いだったオーディの手が無意識に緩んでいた。
 長老には、生贄に選ばれるまで妹共々本当に可愛がってもらったのだ。
 オーディも長老を本当の家族だと思っていた。そんな人だからこそ、妹を地神の生贄に選んだのが許せなかった。
「儂は村を守る為に決断した。儂には村を守る義務があった」
「それが言い訳だろ! そんなの! ……そんなの、ジェイジーには、関係……ない」
 オーディの体が力無くうなだれた。長老から手を離すとそのまま崩れ去り、膝を地に落としてしまう。
 その様子は、妹が生贄に連れ去られた四年前と全く同じ。オーディは未だに四年前の呪縛に囚われたままだった
「そうだな……。あの子が死ぬ必要はなかった」
「っ! 何を! 今更、何を言うかと思えば!」
 一体、何を言い出すのか。ジェイジーを生贄に選んだ張本人の言葉とは思えない。
 それは死んでいった者への裏切りに思えた。しかし、次に長老が口にしたのは、思いがけない言葉だった。
「儂が死ねばよかったな。族長の儂が、村の為に命を投げ出せばよかった。そう気付いたのはお前が村を出て行ってからだった……」
「何を言うん……ですか。あんたは今まで何人も生贄に出しておいて、今更!」
「村の将来を担う若者を犠牲にするより、もう老い先短い儂のような老害を放り出した方が、村の為になる、そうやっとにして気付かされた……」
「何てことを言うんですか! その言葉は贖罪のつもりですか? そんな言葉で犠牲になった人が喜ぶとでも思ってるんですか!」
 オーディは悔しさのあまり、力の限りに地面を殴りつけた。
 踏み固められた砂地に拳が痛む。何度も何度も拳を叩きつける。
 こんなとき、そんな程度では傷付かないクロエの体が恨めしい。
「……死ぬ必要なんてない。誰も死ぬ必要なんてない」
 それがオーディの思いだった。死ぬ必要のある人間なんていない。妹が生贄となり、自身が『白の砂漠』で生死を彷徨い、そして飢えに喘ぐエルトの地を戦士として生きてきたオーディの切なる思い。
 だから、オーディは戦いの中でも誰も殺したくはなかった。それは裁神ピアスを蔑(ないがし)ろにする行為。死すべき者と残るべき者を隔てる裁神に背いてもなお、オーディは誰も殺したくない。
 たとえ、自身が裁神に裁かれ冥神の元に送られたとしても。
「しかし、誰かを生贄に出さなければ地神の怒りは収まらん。神を鎮めなければ雨は降らんのだ。それはクロエ数千年に渡る歴史が語っている。大飢饉が起これば生贄を出す。そうすれば神は我々に雨を与える。それはこの砂漠の理。歴代の族長には生贄を出さなかった方もいたそうだ。だが雨が降らず、飢えと乾きでそれ以上の民が死んだ……」
 それは知っている。オーディも村にいた幼い頃から幾度となく聞かされてきたことだ。
 それを疑う者は村にはいない。オーディも以前は疑いもしなかった。
「……長老。その雨は本当に地神ディフェスの力なんですか? 生贄を捧げたから地神が雨を降らすんですか?」
 何かを決意した声。
 その言葉はクロエの民が信じて疑わない信仰を問うものだ。
 オーディは顔を上げて長老を睨みつけた。クロファリ村と訣別すると決めたから出来る問いだった。
 『砂漠の雁』の詰所でケルケ・カナトに言われて始めて気が付いた。
 地神ディフェスがいない可能性。
 そして、地神ディフェスが本当にいる可能性も。
 その相反する思いを胸に、オーディは禁忌の箱を開けようとしていた。
「オーディ、何を言っている。神を疑うのか! 我々は神に生かされているのだぞ」
「長老、あなたは神に会い、そう聞かされたのですか?」
「神に会うだと! オーディ、お前は……。いや、お前の気持ちはわからないでもない。正直……、わからん。儂は地神に会ったことはない。お前は村の伝承が真実ではないと言いたいのだろ? しかし、儂が生贄を出したときは必ず雨が降った。四年前もそうだ。一年以上雲もかからなかったのに、生贄を出せば雨が降った」
「雨……」
 オーディは思い出す。四年前、オーディは雨によって助けられた。
 『白の砂漠』で会った真っ白な少女が降らした雨に。
「長老。長老は砂漠で会ったことがないですか? 真っ白な姿をした女の子です」
 いきなりの質問だったが、それだけで充分だった。詳しい説明なんて要らない。それは彼女を語る全てに等しい。それ程に、純白の少女には他に類を見ない独特の存在感があった。
「突然何を? ……女の子? 村の子ではないのか?」
 予想通りの答えが返ってきた。
 長老は会ったことがない。恐らくクロファリ村、全ての者に問うても同じ答えが返ってくるだろう。
 彼女に会った可能性があるのは、オーディの他に生贄として『白の砂漠』に捨てられた人物しかいないだろう。
 『白の砂漠』とは、地神ディフェスの聖地であると同時に、死が舞い散る現世(うつしよ)地獄。自ら訪れようという者は皆無。オーディも生贄にされた妹を追って行かなければ『白の砂漠』に入ることはなかっただろう。そして、彼女に出会うことも。
 あの雨を降らせた少女。
 雨を降らせる存在が地神ディフェスと言うのなら、彼女こそが神だろう。
 そして、彼女が神だというのなら、彼女こそ妹が生贄にされた元凶だ。
 オーディの心は決まっていた。
「長老。俺は『白の砂漠』に行って来ます」
 既にオーディの声に怒りも悲しみもなかった。
 それこそが義姉の言う「昔にケリをつける」ということになるんだろう。
 オーディには『白の砂漠』に行き、あの少女に会うことこそが、自身が果たすべき使命に感じられた。
「また、行くのか?」
 四年前と同じように、とは長老は言わなかった。
 長老にもオーディがクロエの聖地に行く理由が、四年前とは異なるのだと確かに感じられたのだ。
 エルトの砂漠、その中心にある色が消え失せた砂の大地『白の砂漠』。クロファリ村に伝わる聖地に行くことで、オーディは過去の呪縛から抜け出そうとしていた。
  



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