第五章 「やまない微熱」

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 学校ってこんなにも面白くないものだったんだ。

 私はその事実にやっと気付きました。
 不健康な私は出来るだけ学校に通えるように努めてきました。
 もちろん実際は皆勤賞にほど遠いけど、友達がいなくったって、私は学校に通えるだけで満足なんです。

 私は病院のベットの上では、運動場を駆けめぐるあり得ない私を夢見てた。
 健康な人達が「学校はダルイ」だとか言っているのを見ても理解出来ませんでした。
 それが今日やっとわかりました。
 確かに学校なんて退屈で億劫で面白みの欠片もない強制施設です。

 頴田君を怒らせた私は、もう学校ですることがありません。
 黒板に書かれた字をノートに写すコピーマシーン。それが今の私。

 本当なら、登校したら真っ先に頴田君に謝りたかったけど。もう私の勇気は挫けていた。
 頴田君に話しかけるなんて元々決死の覚悟がないと出来ないのに、
 怒った頴田君にどうやって立ち向かえというんでしょう。

 恐くて頴田君の方を向けない。
 彼に睨まれたどうしよう。そう考えるだけで、私の視線は自然に下がり顔すら上げられない。
 朝から後ろの席の綾瀬さんが何度か声をかけてきたみたいだけど、何の用だったんだろう?
 なんかどうでもいい。

 はぁ。今日は休めばよかった。
 仮病なんか使わなくたって、微熱の一つや二つ出すのは朝飯前。
 学校を休むなんて、今日一日を生き延びることより容易いのに。

 それでも休まなかったのは頴田君と仲直りしたかったから。
 もし休んでいたら頴田君はきっと思うだろう、「逃げたな」と。
 私は頴田君にそんな人間と思われたくない。

 体が弱い私は心まで弱いと思われたくない。
 自分に非のあるときは素直に謝れる。私はそんな人間でいたい。
 死んだ母がそういう人だった。謝るべきときに謝らないのは卑怯なことだと教えてくれた母。
 そんな母も、謝っても許してもらえないときに、どうすればいいのかまでは教えてくれなかった。

 私はどうすればいいんだろう?
 頴田君はどうして怒ってるんだろう?
 玄関先を血で汚したから?
 電話での謝り方が悪かったから?
 それとも他に原因があるのかな?

「真湖さん?」

 やっぱり昨日、電話した直ぐ後に頴田君ちに謝りに行った方がよかった。
 時間が経った方が頴田君の気持ちも収まるかと思ったけど、時間が経った所為で、
 私の方が話を切り出し難くなってしまった。

「真湖さ〜ん」

 念の為、言い訳に使うお歳暮を持って来たけど、学校でそんなものを渡すのもちょっと変だし。

「えい」

 パチン、と景気のいい衝突音。

「なんで声をかけても無視するのに、デコピンは防ぐのかしら、真湖さん?」

「当たったら痛いし」

 私の手に阻まれて、おでこに当たらなかった綾瀬さんのデコピン。
 防いだ手のひらが結構痛い。ちょっとは手加減してよ、綾瀬さん。

「もうお昼なんだけど」

 綾瀬さんの言葉に教室の中を見渡せば、いつの間にか授業は終わり、皆それぞれお弁当を広げていた。

「今日はどうしたの? 体調悪いの? 保健室行く?」

 保健室……。綾瀬さんにそう言われて、私の視線は自然と頴田君を探してしまう。
 でも教室内に頴田君の姿はありませんでした。おそらく学食に行ったのでしょう。

「……ううん。行かない」

 私の否定の言葉に綾瀬さんは驚いた様子です。

「今日はいつもにも増して変ね、真湖さん」

「そう? ……そうね、変だね」

「自分で言う?」

 あきれ顔の綾瀬さん。綾瀬さんは表情豊かで私から見ても可愛いと思う。
 私なんて普段の無表情と作り物の笑顔しかない。綾瀬さんが羨ましい。

「うん、私変だし……」

「あらら、重症ね。病気以外の悩みなら相談に乗るよ」

「そういう場合は『お金以外は』って言うのが普通じゃないの?」

「百万までならお金でもOKよ」

 高一で百万円を融通出来ると言うの?
 まったく、お金持ちは嫌みでいけません。

「それで真湖さんの悩み事は何?」

「あ〜。……うん、私の問題だから、いい」

「そう……。で、真湖さんお昼ご飯は?」

 既に綾瀬さんはお弁当箱を机の上に用意している。
 たぶんいつもの様に女子数人で集まって食べるんでしょう。
 私には関係ないことです。

「いい、食欲ないから」

 食欲がないのは事実だけど、単にお弁当忘れて来ただけだけなんです。
 折角今日も父が作ってくれたのに。
 まぁ、そのお弁当は今日の夕食になることでしょう。

 私は机に伏せると息を整えて休息をとる。
 今は頴田君以外に用がある人はいない。
 頴田君がいないのなら、私には何もやることがない。
 寝る振りをしてれいれば、綾瀬さんだって私に話しかけることはないでしょう。
 今は綾瀬さんの相手をする気分じゃないんです。

 今後の対策を頴田君が帰って来るまでに考えなきゃ。
 これからどうするの?
 私は何て頴田君に謝ればいい?
 私は頴田君に何を言えばいい?

 この所、そんなことばかり考えている。
 私の思案ほど無駄なものはない。
 私が何を思おうと、何を考えようと、事態は好転しない。
 好転した試しがない。
 私の思考はいつだって無駄に回ってる。
 結局私にはそれしかない。
 現実を進めない私。
 頭の中でしか未来を実現出来ない私。
 妄想の生き物。それが私の正体だ。

 病弱な私。
 人とは違う生き方しか出来ない私。
 私はいつでも一人。
 この世界は私は必要ない。
 私がどう足掻いたって……。
 私なんて……。



 私の思考はいつもの袋小路に迷い込む。

 私には悲しい答えしかない。
 そんなこと、ずっと前から知っている。
 だからこそ懸命に生きている。
 死ぬまで生きてやる。
 無様に無惨に無器用に生きてやる。
 頴田君に嫌われたって、私は死なんて選べない。
 選ぶはずがない。
 たかが恋愛程度、私を絶望させるには全然足りない。
 幾度の臨死を乗り越えて、今を生きている私はどんなことにも屈したりしないんだ。

 うん、そうに違いない。

 私は昼休みの間、机に伏せたまま、そんなことを考え続けていた。
 だから頴田君が昼休みのギリギリになるまで教室に帰って来なかったのを知らなかった。
 いえ、昼休みだけじゃありません。頴田君が授業以外、教室にいないことに私は気付いていなかった。

 私がようやくにして不審に感じたのは放課後になってからでした。
 私が気付いたときには、頴田君はすでに教室にはいませんでした。
 そして私は、もう一つのことにも気が付いた。

「……綾瀬さん」

 私は後ろの席で帰り支度をしていた綾瀬さんに喋りかけた。
 私から声をかけるなんて、今日は雪でも降るかもしれない。

「真湖さん、どうかした?」

「今日は何か、雰囲気違う……」

「雰囲気? ……もしかして真湖さん。今日が期末テスト一週間前って知ってる?」

 綾瀬さんは首を捻るように聞き返す。

「そう……、私もそんな気がしてたの。放課後なのに部活組がうろちょろしてるから」

「そんな調子で、テスト大丈夫? ちゃんと勉強してるの?」

 綾瀬さんの言葉に私は深い溜息を吐いてみせる。

「綾瀬さん。私が留年生ってこと忘れてる? 今年習っている範囲は去年も習ってるのよ。私は今年度、一度もテスト勉強なんかしたことないのよ」

 私の言葉は半分事実で半分が嘘。
 確かに去年も今年と同じ授業課程を経験しているけど、私は去年の今頃、病院のベットの上にいた。
 そんな私が去年も勉強をしているわけがありません。

「ふ〜ん、だからいつも赤点すれすれなんだ」

「ふふふふ、勉強せずに及第点をいかにゲットするかが学生に求められる最高の技能なのです」

 私は胸を張って言う。
 言っている内容が誉められたことでないことぐらいわかってます。

「それで来年はどうするの? 来年は知らない二年生の範囲でしょ? 一年間勉強してない人が急に勉強を始めるのは難しいでしょ?」

 来年? はははは、綾瀬さん、何を言っているの。
 いつ死んでもおかしくない私が、来年みたいな遙か遠い未来のことなんて考えているわけがないじゃない。

「そうね。昔のクラスメイトからノートと過去問をもらおうかな……」

 我ながら名案です。是非とも実行するとしましょう。

「また、そんなこと言って。真湖さんもちょっとは真面目に勉強したら?」

「私は綾瀬さんみたいに優等生にはなれないの。塾も行かず学年トップテンの成績なんて、私には一生無理なのよ」

「そんなことないわ。真湖さんだって勉強すればきっと成績よくなるわよ。勉強教えてあげましょうか?」

 勉強なんて、してどうなるっていうの?
 一日に何時間も浪費して一生懸命勉強して、それでポックリ死んだら馬鹿みたいじゃない。

「そうね。今のところ遠慮しておくわ。機会があればそのうちにね……」

 私は綾瀬さんの申し出を丁重にお断りして、逃げるように教室を後にした。
 社交辞令を真に受けて残念そうな顔をする綾瀬さんがうざかった。

 私はいつもより人通りの多い廊下を一目散に下足室に向かった。
 今日からテスト準備期間。普段部活に向かう人間が皆帰宅するのだ。
 下足室もいつも以上に人で溢れていた。

 私は周りに自分のクラスの人間がいないことを確認して頴田君の靴箱を開けた。
 手紙を入れたときの苦労が嘘のようにすんなり開けることが出来ました。
 単に何も考えてなかっただけ。それだけで前とは大違いです。

 頴田君の靴箱に入っていたのは学校指定の上靴。
 頴田君はもう校内にいないことを示していた。

 絶対おかしい。

 帰宅部の頴田君がこんな時間に帰宅するなんてあり得ない。
 頴田君はテスト準備期間になると、
 普段部活に行って放課後に時間を取れない友達とお喋りして、もっとゆっくり帰る人です。
 たまになら授業終了のチャイムと同時に帰宅してもおかしくない。
 でも今日は丁度テスト一週間前。部活動禁止期間が始まった初日。
 そんな日に友達に目もくれず帰宅するなんて、頴田君の行動パターンじゃありえない。

 いつも頴田君を見ていた私だからわかる。
 今日頴田君に謝ろうと構えていた私だからわかる。
 今日の休み時間、頴田君はずっといなかった。
 私が謝ろうと思っても頴田君はずっといなかった。

 絶対おかしい。
 頴田君が行動パターンを変える何かがあったとしか思えない。頴田君に何があったの?

 悪い予感がして、私は急ぎ足で学校を出る。
 バス通学の頴田君はバス停に向かったはず。
 私は息を切らせてバス停に急ぐ
 。私のか弱い肺は直ぐに悲鳴を上げたけど、私は足を止めなかった。

 その甲斐あって、私は発車寸前のバスに飛び乗ることが出来ました。
 そこに待っていたのは満員の車内。その混雑ぶりに生理的嫌悪感が過ぎる。
 でも今更バスを降りるわけにもいきません。

 ちょっと考えればわかることだった。
 部活がないテスト準備期間の放課後一本目のバスです。
 帰宅する学生で満員なのは当然だった。

 搭乗口付近で鮨詰めにされた私は、あがった息のまま車内に目を配る。

 いた。頴田君。
 バスの降り口近くの座席に悠然と頴田君は座っていた。
 それは授業終了のチャイムと同時にダッシュしていなければ得ることの出来ない座席。
 頴田君の異常な行動を示す証拠でした。

 車内に詰め込まれた邪魔な人達の隙間から垣間見える頴田君は、ずっと窓の外を眺めていた。

 外は十二月の寒空。淀んだ灰雲が太陽を遮り木枯らしが町を揺らす。
 そんな季節でも、いえ、そんな季節だからこそ、
 活気溢れる学生を満載したバスの車内は、ガンガンに利かせた暖房で不快なぐらいに暑い。

 私の体が急激にのぼせていく。いつも私の胸にまとわりつく違和感がうめき出す。
 脳裏にいつかの満員電車のことが過ぎる。吐いちゃいそう……。

 ダメ。今は吐いちゃダメなの。
 今吐いたら頴田君に見つかっちゃう。
 そう思う私の心にもう一人の私が問いかける。

『どうして吐いちゃダメなの?』
『どうして頴田君に見つかっちゃダメなの?』
『私は何をやりたいの?』
『私は何を望んでいるの?』
 わかんない。わかんないよそんなの!

 私の思いはぐるぐる回る。
 私の視界もぐるぐる回る。
 手すりをぎゅっと握りしめ、私はバスが着くまで必死に耐え続けた。

 終点の新前岡駅に着いたとき、私はバスの床にへたり込んでいた。
 他の乗客達は私を横目に見るだけで、我先にと車外に消えていった。
 もちろん、降り口の側に座っていた頴田君は一番最初にバスを降りてしまった。

「お客さん。大丈夫ですか?」

 終点の車内チェックにでも来たのだろう。
 バスの運転手が私に近づいて来た。

「ええ、ちょっとのぼせただけです」

 私はそう言い切ると、料金精算を済ませてバスを降りた。
 幸い、本当に軽い目眩だけ。徒歩通学で普段バスに乗らない私には、
 車通りの少ない田舎道を快走する満員バスの揺れは刺激が強過ぎたんだ。

「痛っ」

 空気の冷たさに思わず口に出た。

 前岡盆地を縦断する砂狭川。それに併走するように敷かれた鉄道と駅付近は、この辺りで最も風通しがいい。
 冬のこの時期、駅周辺は山間部よりも気温は低くなる。だから冬はいつだって凍結注意。

 薄暗く曇った空を見上げ、ゆっくりと外気を肺に取り込む。
 のぼせた体が急激に冷やされていく。
 それと同時に気管支にいつも以上の疼痛を感じる。

 なるほど、今日はこの冬一番の冷え込みになりそうです。
 私の体ほど敏感な温度センサーはないでしょう。
 僅かな温度変化で体調がころころ変わるのだから。

 今日の強い寒気を感じているのは私だけではないのでしょう。
 駅前を行く人の足も、皆小走りになっていた。

 すでに駅前のロータリに頴田君の姿はありません。
 ちょっとバスに長居し過ぎたみたい。
 私は直ぐに足を砂狭川の方に向ける。
 頴田君ちのある前岡ニュータウンは新前岡駅から砂狭川を越えた対岸にある。
 つい二日前に頴田君の家に行った私だ、迷うはずがない。

 私は出来るだけゆっくりとした呼吸を保ちながら、それでいて出来るだけ早く歩く。
 私の脆弱な肺をいたわりながら、最大限の心肺能力を引き出さなければならない。
 そんな矛盾した人生を私は歩んで来た。
 たぶん、これからもずっと、死ぬまでそれが続くのでしょう。

 急いで歩いても、頴田君の後ろ姿は見えなかった。
 いくらなんでも視界にも入らないなんておかしい。
 私がバスに留まっていたのは、多く見積もっても一、二分。
 降車のタイムラグを考えても早足で歩いて追いつかないはずがない。

 別の道を行っちゃたのかな?
 でも頴田君の通学路は一本道です。
 新前岡の駅前に商店の類が全くない以上、別の場所か電車に乗り換えない限り……。

 そっか。頴田君はどこかに行く用事があったのかもしれない。
 だから授業終了と同時に学校を出たのかも。
 それだったら頴田君の行動にも納得がいきます。

 そういえば……。この前、榛道駅で頴田君に会ったっけ。
 頴田君はあんな何もない駅になんの用があったのでしょう?

「帰ろっかな……」

 頴田君が前を歩いていると信じていたからこそ、体に鞭打って追いかけていたのです。
 頴田君がどこか別の場所に行ってしまった可能性が出てしまうと、私のやる気は沈み、足は急に重くなる。

 そりゃそうです。
 目の前にぶら下げたニンジンがなくなれば駄馬は走れないんです。

 あ〜 でも、ここまで来たのに何もせずに帰るというのも勿体ない。
 徒歩通学の私がバスに乗ってまで来たのに……。

 なら一層のこと、頴田君の家まで行く?
 ……それは無理です。
 先日の出来事が頭を過ぎり、とても頴田君の家に伺う気分にはなれません。
 でも、私は頴田君に少しでも早く謝りたい。
 頴田君はテスト一週間前のこの時期に遅く帰るような人ではありません。
 待っていれば、多分すぐ帰って来ると思う。

 だったら頴田君の帰り道で待つのです。
 頴田君の家までは、ほとんど一本道。
 帰り道で待っていれば、必ず頴田君に会えるでしょう。
 私は頴田君の帰り道通りに歩みを進め、そのまま頴田君ちの方に向かうことにした。

 先ほどまでの早歩きで荒れた私の息が、真っ白に流されていく。
 新前岡の駅を離れると建物は姿を消し、農閑期の田畑が広がる寂しい風景。
 それがこの辺り本来の姿なんでしょう。
 農村に無理矢理通した線路、無理矢理作った新駅。
 人工的に作られた『街』の上に私達は住んでいる。

 ホント、この『街』には生活感という物がない。
 こんな農地のど真ん中に、誰が赤レンガ造りの駅を望んだというのでしょう?

 ほどなく目の前に、場違いに立派な橋が見えてくる。
 砂狭川に渡された『えるぐ橋』。
 どういう由来のネーミングかは知らないけれど、どうせ公共事業を誘致した政治家の偉いさんが名付けたのだろう。
 本人はイケてると思って付けた名前でしょうけど、全く意味不明です。

 そのセンスのなさは名前だけではない。
 有名建築家がデザインしたそうだけど、必要以上の巨大さと、
 淡いピンクとメタリックな光沢の色使いが下品としか言いようがない。

 そんな橋でも私の住む霧ヶ屋と、頴田君の住む前岡ニュータウンを結ぶ重要な交通拠点。
 地元住民にはこの橋のない生活など考えられません。

 橋梁にあがると一段と強い風が吹き荒れる。
 舞い上がる風に、私は必死にプリーツスカートを押さえつける。
 体重の軽い私は風に足をとられてふらついてしまうことが苛立たしい。

「あっ……」

 長い橋の対岸付近に学生服が見える。
 この強風の中でも少しも揺らぐことのない歩み。
 私が見間違えるはずがない。頴田君の後ろ姿。

 どうやら私は勘違いしていたようです。
 頴田君は新前岡の駅からどこかに出かけたのではなく、単に私より遙かに足が速かっただけ。
 確かに私の小学生並の歩幅では、早歩きした程度でその速度はたかがしれてます。

 頴田君は既に橋を渡りきろうとしています。
 このままでは更に離されてしまうのは目に見えている。
 でも、私は駆け出したりはしなかった。

 頴田君ちへの帰り道はばっちり把握してるんです。
 橋を渡ってしまえば、頴田君ちまで砂狭川の堤防沿いの一本道。
 もう急がなくても頴田君を見失うことはありません。
 私は足音をたてないように歩みを早めました。

 絶え間ない川のせせらぎ。木枯らしが全てを包む。
 薄茶の下草が広がる河原を背景に二つの学生服が行く。
 近すぎず、遠すぎず。それは私の心と同じ。
 もっともっと近づきたいと願うくせに、踏み込む勇気なんて持ち合わせていない。
 決死の覚悟で近づいてみれば、私なんかが頴田君のいる場所に届くことがないことを知らされる。
 私は遠くから見ているしかない。私なんか、どうせ……。

 喉から込み上げる湿った咳。
 酸素を求める肺は、凍える空気に跳ね上がる。
 いつの間にか身中に喘鳴も響きだしていた。

 寒い。
 冬が寒いのは当たり前だし、ここ二松市も比較的寒冷な気候の土地柄です。
 それにしたって、今日はちょっと洒落にならないぐらいに寒い。
 地球は私好みに温暖化してくれているはずなのに、どうしてこんなに寒いのでしょう?
 空気に晒される皮膚はチクチクと痛みを訴えている。
 外気を取り込む鼻口は冷えきって、鼻水が滴り始めていた。

 そういえば去年の冬は腰骨を折って病院と自宅に籠もってたんだっけ。
 つまり私の体には二年ぶりの冬。体が冬の冷え込みに慣れきれずにいるんだ。

 そんなの言い訳になりません。
 病弱な私だってこんな冬を十余年乗り越えて生きてきたんです。
 冬だからといって寒さに負けるわけにはいきません。
 そりゃ毎年秋口から体調を崩すのは恒例のことだし、気温が上がればそれなりに回復する。

 だったらどうして、私はこんな寒風吹き荒れる川沿いを歩いてるのでしょう?
 体が冷えれば体調を崩すことは経験的に、嫌というほど知っているのに。
 それでも私は頴田君の後ろ姿を必死に追い続ける。

 違和感はありました。
 いくらまだ距離があっても、いくら木枯らしが吹き荒れていても、遮る物が何もない堤防の道。
 幾度となく咳を繰り返す私に頴田君が気付かないはずがありません。

 距離は五十メートルを僅かに切るぐらい。
 そんなに近いのに、頴田君は一度も振り返ることがないのです。

「……頴田君」

 私は彼の名前呟いた。
 やっと声になった程度の弱々しい声。
 喘息が出始めた肺から漏れ出た微かな音。
 だから、まるでその声が聞こえたかのように頴田君が立ち止まったことに、私は酷く驚いた。

 ど、どうしよ。こんな堤防の上、ガードレールすらない吹きさらしの道で隠れる場所なんてありません。

 私は咄嗟に河川敷の斜面に滑り込んだ。

「きゃ」

 私の口からまるで女の子みたいな声が漏れる。
 まぁ確かに私の性別は女なんだけど、そんな可愛らしいリアクションをするなんて、ちょっと恥ずかしい。
 そういうメルヘンな行為は幼稚園の年長さくら組で卒業したはずなのに。

 計算通り冬でも枯れ尽きない雑草がクッションになる。
 ただ、勢い余って斜面の下までクルクル転がってしまう。

 ぐふふ、ちょっと目が回りましたよ。
 なんだか小学校のマット体操を思い出しちゃいます。
 あれほどに意味不明な運動を私は知りません。
 前に後ろに転がって何が楽しいんでしょうか?
 さっぱり面白くなかったんで、ほとんど見学してやりました。
 そしたら人がしてるマット体操を見てる方が退屈なんですよ。
 せめて全く情け容赦のない弱い者イジメを奨励するドッジボールを見ていた方がまだマシです。
 どちらにせよ、体育なんて大っ嫌いです。

「う〜ぅ」

 回った天地がゆっくりと地平を取り戻す。

 体中に枯れ葉屑がまとわり付いている。
 帰ったらエチケットブラシをかけないと……。
 私は髪に着いたゴミを取りながら再び堤防上の道に戻る。
 こういうとき、長い髪は面倒でいけません。

「……」

「……え〜と」

 目が合いました。
 こういう場合、どうしたらいいのでしょう?
 堤防の斜面に上手く隠れたはずなんですが、いささかちょっと、さすがに無理があったのかもしれません。

「……」

「……あは♪」

 どうして目の前に頴田君がいるのでしょう?
 彼は私の五十メートルは先を歩いていたはずです。
 なのに距離にして十メートルほど、私が堤防を転がり落ちた斜面の直ぐ上まで頴田君は戻って来ていた。

「……頴田君」

 私はさっきと同じように彼の名前を口にする。
 それはまるで呪文のよう。

 頴田晶君。
 私のクラスメイト。
 私によく付き添ってくれる保健委員。
 困っている人を見捨てることの出来ない可哀想な男の子。
 私の好きだった人……。

「頴田君」

 今度は呟きじゃない。
 はっきりと彼の名前を呼んだ。
 肺が軋み始めた今なら、その声は肺活量を限界まで絞り出した叫び声なんです。
 頴田君にその声の意味は伝わっているのでしょうか?

「……どうして?」

 頴田君がいきなり理由を聞くのです。
 私に何を答えろと言うのでしょう。
 私には言うべきことがたくさんあります。
 たくさんありすぎて何を伝えればいいのかわかりません。
 私の心は単純なように見えて複雑なんです。
 これでも女の子ですから。

「どうして、俺に付いて来るんだよ」

 やっぱり私が後ろを歩いていたことはバレいたようです。
 さすが頴田君。そういうことには敏感なんだから。

「あ、あのね」

 私は肩に提げた通学鞄をまさぐって、謝罪の為に家から持って来たお歳暮を取り出す。
 私の家に届いたお歳暮のお裾分け。
 頴田君ちに行ったことを言い訳する為だけに持って来た贈呈品を頴田君に差し出す。

「あのね。こ、これもらってくれる?」

 あれ? 私が差し出したボトルは妙に軽い。
 ボトルからは黒い液体がぽとぽとと……。

「……」

 頴田君が絶句するのも無理はありません。
 お歳暮にもらった醤油ボトルを持って来たのですが、なぜかボトルから醤油が漏れて中身はほとんどありません。

 っていうか、臭っ! 醤油臭っ!

 うわわ。
 通学鞄の中も醤油浸しです。
 あぁ、教科書も醤油でぼとぼとです。

 あ〜、さっき堤防の斜面に隠れたときに転がってしまったのがまずかったのでしょうか。
 ちょっとやそっとで壊れるはずのないペットボトルが漏れ出すなんて、ついてません。

「あ、あの。ちょっと、ちょっと漏れちゃったみたい。ははは……。こんなのいらないよね?」

「いらないに決まってる」

 頴田君の声には私を凹ますのに十分な怒気が混ざっていた。
 そりゃそうだよね。せっかく苦労して学校にまで持って行ったのに。
 これ一.五リットルで私にすれば結構重かったのに残念です。

「……」

「……」

 会話が続かない。
 こんな河原の堤防で男の子と女の子が黙っているしか出来ないなんて……。

 沈黙の中で、頴田君が何かを言いたそうにしているのは直ぐにわかりました。
 ずっと頴田君を見てきた私です。
 今日の頴田君がいつもと違うのも手に取るようにわかります。
 普段の頴田君は、もっと何も考えてない人です。
 自分の意思を主張なんてしません。
 私が何をしようと、彼にはどうでもいいはずなんです。

 なのに、私に言いたいことがあるんですか?
 頴田君。それはルール違反じゃないんですか?

 誰が決めたのでもないルール。
 人と人との距離感。
 私と頴田君の関係性。
 とても遠い。それこそ夢が夢であるように現実的には何もない関係。
 だからこそ、私は頴田君といるのが心地よかった。心地よかったんだよ。
 そう、やっぱりそれも、過去のことになちゃうんだよね、頴田君。

「何してるんだよ、お前」

「……何してるんだろうね?」

 そんなの、私の方が聞きたいぐらい。
 私は何をしてるんでしょう。

 私は病弱で、友達もいなくて、
 私がどんなに足掻いたって、何が出来るわけでもなくて、
 一人で拗ねて、素直になんかなれなくて、人の親切を尽く無駄にして……。

 私がいなくても誰も困らない。むしろ私さえいなければ世界はどんなにスムーズに回るだろう。
 妻に先立たれた父は再婚して新たな家庭を築くだろう。
 私のいない学校は先生達の気苦労が一つ減り、
 邪魔者が消えたクラスは普通のどこに出もあるクラスに戻ることが出来る。
 そして、保健委員の頴田君が授業中に駆り出されることもない。
 ホント、私は何ていらない子なんでしょう。

「どうして俺に付いて来るんだよ」

 怖い。
 頴田君の顔は真剣そのもの。
 こんなにも真面目な顔をした頴田君を私は見たことがない。

「昨日の電話も、お前だよな?」

 そうだよ。昨日、頴田君ちに電話したよ。
 そういえば私、名乗ってなかったかも。また失敗です。
 そうだよね。電話をかけたらまず名乗らないとね。

「……電話、したよ」

「どうして嫌がらせみたいなことするんだよ!」

 いつも穏和な頴田君が声を荒げた。
 やだ。そんな頴田君見たくない。

「ち、違う……。嫌がらせなんか、してない」

 私はそう答えることしか出来ない。
 だって嫌がらせなんてしたつもりは全然ない。

「あんなイタズラ電話を何回も! お前、何考えてるんだよ」

 そ、そんなこと言われても……。
 私なりに頑張って電話したんです。
 私なりに考えて電話したんです。
 それなのに……、それなのに……。

「何とか言えよ、真湖!」

 うぐぅ。
 そんな言い方、酷いです。

 目の前の頴田君が霞んで見える。

 悔しいのかな私?
 悲しいのかな私?
 いつの間にか涙腺は緩んでいた。

 でも泣いたってどうにもならないよ。
 頴田君に泣いて見せたって意味ないよ。
 泣けば全て許されるなんて馬鹿なこと、考えてないんだよ私。

 ずびびぃ。
 私は鼻音を鳴らしてしまう。
 元々寒さで鼻水が増大してたのです。
 もう頴田君から見たって、私が鼻水を垂らしているのもまるわかりでしょう。
 私、恥ずかしい……。

「何とか言ったらどうだ?」

 頴田君の怒りは収まるどころか、苛つきを隠すことがない。
 まるで不倶戴天の敵を見るかのような眼差し。

 そうだよね。私が悪いことしたんだよね。
 私の責任なんだよね。これが私のやってきたことの末路なんだよね。

「真湖」

 頴田君が私の名前を呼んでくれる。
 こんな状況でも、私はそれだけで嬉しい。

「もう付いてくんなよ」

 そう言って頴田君は私に背を向けた。

 それは拒絶の言葉。
 決定的な最後の言葉。

 絶対に聞きたくなかった。
 でも、いつか言われることはわかっていた。
 だって、私は頴田君にとって邪魔な存在なんだから。

 頴田君が離れて行く様子を私はただ見守ることしか出来なくて……。

 私は何なのでしょうか?
 私は何をしてきたのでしょう?
 私は何のために生きてるでしょう?

 私は嗚咽を漏らす。

 悔しいんじゃない。
 悲しいんじゃない。
 そんな明確な感情、説明の付く感情なんて、私にはない。

 私は誰かに頼りたかった。
 誰でもよかった。
 私を除け者としない人なら誰でもよかった。

 頴田君は私を特別扱いしなかった。
 私も他の人も全く同じように扱ってくれた。
 そんな頴田君に私は甘えてた。

 やっぱりわかってたんだよ、私。

 頴田君は誰にでも平等に接して、平等に好意も抱かない……。

 私は頴田君に何とも思われてなかった。
 私は道端の石っころと同じ。
 いてもいなくても頴田君の人生に何ら関係ない人間なんだ!

 私の嗚咽はいつの間にか咳に変わっていた。
 吐き出すのを抑えようなんて考えすら湧かない。
 何回咳をしようが関係ない。
 何を吐き出そうが私には何もない。
 体から流れ出す何かを止める必要もない。

 はははは。
 思う存分、私の命を削ればいい。
 血でも何でも吐きやがれ。死んじゃえ私!





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