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「西家さん、どうかしましたか?」

 不意に声をかけられ、西家は体をびくつかせ顔を上げた。
 病室の扉が開かれて看護師の北出田が顔を覗かせていた。

「えっ……、あ、いや……」

 別にどうしたわけでもないのに、どうかしたのかと問われても、返答に困るというものである。
 それともこの看護師が友人を殺した苦しみから解放してくれるというのだろうか。

「西家さん、ナースコールしたんじゃないんですか?」

 北出田はさも当然のように言う。
 しかし西家にナースコールをした覚えはない。

「いえ……」

 西家は言葉を濁すしかなかった。
 ナースコールをした覚えはないのだが、先ほど嫌な思考に取り憑かれたときに無意識にボタンを押したのかもしれない。
 そんな可能性が頭を過ぎり、明確な否定の言葉が言えなかった。

「眠れないんですか?」

「え、えぇ」

 咄嗟にそう答えたものの、西家はそもそも寝ようという気になれなかった。
 寝ればきっと、悪夢を見るに違いない。
 そんな予感と、何する気力も出ない状況では、
 消灯を過ぎたとはいえ、まだ夜更けとはいえないこんな時間から寝る気にもなれず、
 西家はずっと放心状態のまま、まるで息をするだけの人形のようだった。

「困りましたね。剋田先生に言って、眠れるお薬、出してもらいましょうか」

「……お願いします」

 そうは応えはしたが、本心では何もせずに放っておいて欲しかった。
 出来れば独りそっとしておいて欲しい。しかし、人の親切を無駄にすることも気が引けた。
 北出田看護師が西家に視線を残すように去っていく。
 西家の様子が普通でないことを気にかけているのだろう。

「はぁ」

 独りになった西家はまた大きな溜息をついた。
 入院してから、溜息が尽きることはない。

 こんな調子で、自分はどうなってしまうんだろう。やるせない不安が西家を襲う。
 もう自分には未来なんてないんじゃないのか、そんな思いにかられてしまう。

 そんな考えが頭を巡ると、ふと、あることが気になった。
 西家は自分自身の事件が世間にどのように報道されているのか、まだ知らなかった。
 病室には備え付けのテレビはあったが、まだ一度も電源を入れたことはなかった。

 それは良い傾向と言えた。
 ネガティブな思考を繰り返し、自分の内に閉じ籠もるのではなく、自分の周りのことを気にするというのは、
 心に僅かばかりでも余裕が出来たのかもしれない。

 西家は早速テレビを点けチャンネルを回す。
 丁度、夜の報道番組が放送している時間帯だった。
 普段からよく見ていた番組のはずなのに、見慣れたキャスターの顔が酷く懐かしく思えた。

 食い入るようにテレビを見るが、駅での事件どころか、
 義田の『リフティング事件』、士井の『関西空港滑走路脇死体遺棄事件』の報道もなかった。
 それはチャンネルを変えても同様だった。

 自分が関係した事件が、世の中に知れ渡っている。
 そんな気がしていた。だが、事件が起ころうと起こるまいと、世間はいつも通りに回っているのだ。

「自意識過剰なのかな……」

 そう言って西家は苦笑した。

 なんだか気が楽になった。
 そう、たった数人死んだところで世界が変わるわけがない。
 西家が苦しもうと苦しまずとも、何も変わらない。
 後は西家の心持ちだけ。
 だったら……。

 西家は人殺しという禁忌の罪に、ある種の回答を得ていた。
 ロシア文学の傑作『罪と罰』ではないが、殺していい人間なんていないと西家は考えていた。
 そして、どんなことをしてもその罪が消えるわけではないということも。
 それでも罪を背負って生きていく。その業が、なんとなくだが分かった気がする。

「裁くのは俺なんだな……」

 昼に来た弁護士は、正当防衛は確実だろうと言った。
 その言葉はたぶん現実のものとなるだろう。法学の素人である西家にもそれは簡単に予測出来た。
 司法は西家を裁いてはくれない。西家の罪を裁くのは、たぶん西家自身なのだ。
 西家が死ねば解決するという問題ではないのだろう。
 だったら自分が何を為すべきなのかを見付けないといけないのだ。

 いつの間にか、空虚に沈鬱していた西家に気力が戻ってきた。
 まだ具体的に何をすればいいのかなんてわからない。
 でも、病院のベッドの上で伏せっているのは最悪の選択肢であると気付いた。

 そうすると、なんだか視界も晴れた気がする。
 今まで、ただぼんやり眺めていた病室の風景。
 まるで靄がかかっていたみたいに、はっきり記憶に残っていなかった情景が西家の意識に入ってくる。
 始めて病室を見た。そんな気にさえなってくる。

 たった一人の個室。
 重体とは言えない西家には勿体ない部屋だ。
 おそらく西家の事情を考慮して病院が割り当ててくれたのだろう。
 その分、入院費用もかさむはずだが、今の西家にはありがたかった。

 そして先ほど点けたテレビに目がいった。
 さっきは画面を見るのが精一杯だったのだろう。
 しかし改めて見れば、テレビの上に紙の束があるのを見付けた。

 西家は一瞬で凍りついた。見覚えのある紙の冊子に心を鷲掴みにされる。
 それは柳沢の小説だった。

 西家はそっと手を伸ばす。
 指先が触れると記憶通りの触り心地になぜか驚いてしまう。
 手元に引き寄せて見れば、それは確かに、昔、友人が書いた小説に違いなかった。

 事情聴取に来た刑事たちが忘れて行ったのか?
 いや、違う。刑事たちは駅の現場からそんな小説は発見出来なかったと言っていた。
 もちろん、病院に担ぎ込まれた西家がわざわざ拾って、持って来る余裕はなかったし、そんな記憶はない。
 だったら誰が? あの阪朽弁護士? それとも?

 いろんな疑念が頭を巡る。しかし考えよりも先に、指は小説のページをめくっていた。
 西家は何かに取り憑かれたように文章に目を走らせる。

 読むというより、まるでレジでバーコードを読みとるかの如く、視覚から情報を取り入れる。
 そんな鬼気迫る様子で次々と小説をめくっていく。

 小説の中で義田が死ぬ。士井が死ぬ。
 そして、浦谷も死んでいた。

 西家が浦谷を殺すシーンが小説に書いてある。
 西家が駅で経験したそのままの出来事が小説に書いてある。
 まるで横で見ていたみたいに妙にリアルに書いてある。

 これは何だ?
 西家はこんなシーンを読んでいない。
 実家で見付けたとき、流し読みをしていたが、こんなことが書いてあるなんて見た覚えがない。
 第一、西家が浦谷を殺したのはつい三日前の出来事なのに……。

 これは何だ? これは何だ? これは何なんだ!
 西家は読んでいない。こんな浦谷を自身が殺すなんて文章読んでいない。

 だったら西家が小説通りに浦谷を殺すなんて出来やしない。
 駅で浦谷を見付けたのも偶然だし、それに、あのとき浦谷を西家が突き飛ばしていなかったら、死んでいたのは西家の方だ。

 西家の腹の傷が突然に疼き出す。傷口が心臓に変わったみたいに、痛みに脈打つ。
 この痛みは生きている証。死んでしまったら痛みも感じない。

 あのとき、西家は浦谷の代わりに生き残ったのではないのか?
 それは偶然だったのではないか? なのになぜ、小説に既に書かれているんだ……。

 西家の指は震えていた。
 いや、震えているのは指だけではない。
 手も足も唇も、全身が震えている。

 この小説は書かれたことが全部起こっているのか?
 柳沢が予言でもしたっていうのか? この小説は予言書なのか?

 今読んでいるモノは、一体なんなんだ。
 その答えを考えるのが躊躇われてしまう。西家は考えることを放棄して小説を読み進める。
 それ以外の選択肢が見付からなかった。

 西家の記憶では、実家で見付けた柳沢の小説は、士井が死んだところまでしか書かれていなかった。
 それ以降は白紙だったはずだ。あれは未完成の小説だったのだ。

 なのにこの小説は、その続きに西家が浦谷を殺すことが書かれてある。
 つまり、これは別物だ。西家が実家で発見した小説よりもバージョンが新しい原稿。新しい冊子なのだ。

 そして、今読んでいるこの小説には、更に続きが書かれてある。
 もう読みたくない。そう心で思っても体が勝手に小説を読んでいた。

 ある事柄の描写が、延々何ページにも渡って綿密に書かれてあった。

 要約すれば
 『西家は入院した病院で医師に毒殺される』
 ということだ。

 西家の死ぬ様子が無意味に事細かく書いてある。
 どれだけ苦しむのか。抗いがたい苦痛に苛まれながら死んでいく西家心情が書かれてあった。
 それには読んだだけで泣きたくなるような臨場感があった。

 そして、西家が死んだところで小説は終わる。
 まだ白紙ページを残して小説は終わっていた。

 いや、これは小説なのか?
 なぜ医師が西家を殺さねばならないのか、書かれていない。
 恨みがあったのか、誰かに頼まれたのか。それもと愉快犯なのか。全くわからない。
 ただ、西家が苦しむ様を書いて喜んでいる。そんな不愉快な文章だった。

 これは一体なんなんだ?
 西家はこれまでの事件は犯人が小説を見て、その通りに犯行を行ったのだと思っていた。
 しかし、それでは西家が浦谷を殺した様子が書かれていることに説明付かない。

 だったら、この数年前に書かれた柳沢の小説は未来を予言したものだっていうのか。
 柳沢はそんな超能力を持っていたとでもいうのか。

 西家がいくら考えても答えは出ない。
 俺はどうしたらいいんだ。西家は自問する。
 その答えも闇の中。正解なんて全く分からない。

 弁護士の阪朽先生に相談する? いや、それならば警察に全て任せた方がいい。
 とにかく、この小説の存在を誰かに伝えなくては。
 西家は腕に刺さった点滴の針を引き抜いて、飛び上がるようにベッドを降りると、病室の扉を開けた。

「おっと。西家さん、どうしました?」

 扉を開けると、目の前に体格のいい男が立っていた。
 看護師の北出田と鉢合わせしたのだ。

「どうしたんですか? 西家さん」

 来田出はにこやかに聞く。

「いえ、ちょっと電話を」

「電話? こんな時間にですか?」

 時計を見れば午後十一時を回っていた。
 小説を読んでいる間に、随分と時間が過ぎ去ってしまったようだ。

「どこに電話をかけるか知りませんが、明日にした方がいいんじゃないですか?
 それにまだ傷が塞がってないんですから、勝手に歩き回られると困ります」

 と言うと、有無を言わさず西家はベッドに押し戻された。

「もうすぐ、剋田先生が来ますからね」

 その言葉通り、直ぐに眠そうな顔をして剋田医師が病室に入ってきた。
 今日の夜勤に備えて仮眠を取っていたのだろうか、髪型が不自然に歪んでいた。

 剋田医師はあくびを噛み殺すと、白衣のポケットからアンプルを取り出し、新品の注射器に注入し始めた。

 何か違和感があった。
 事件で憔悴(しょうすい)しきった西家でさえ感じる、とても大きな違和感。西家は堪らずに口を開いた。

「先生、それは何の薬ですか?」

「これかい? これはとてもよく眠れる薬だよ。とてもね」

 眠れる? 睡眠薬?
 いや、それならば、こんな時間に医師がわざわざ出向いて注射などしなくても、錠剤を渡せばいいじゃないか。
 西家の心に疑念が湧き始める。
 剋田医師は注射器の空気抜きをすると、頬を緩めて西家に見直った。

「さぁ、腕を出して」

 剋田医師は空になったアンプルを無造作にポケットにしまう。

 どうして使用済みのアンプルをポケットに入れる必要がある。
 薬品がポケット内にこぼれるかもしれないのに、どうしてわざわざポケットに入れる?

 隠した? アンプルが見えないように隠した?
 違和感の正体が、疑念の回答が、次第に浮かび上がる。

 ナースコールした覚えがないのに看護師が現れた。
 そして、病室を出ようとした瞬間、看護師に止められる。
 そしてわざわざ医者が現れて注射を打とうとする。

 なんだよそれ。どうしても俺に注射を打ちたいのかよ。
 俺は腹に傷があるだけの怪我人なんだぞ。そんな注射必要なのか。
 西家の幾多の疑問は一つの回答を紡ぎ出す。
 西家の脳裏にあの小説の内容が残響のように繰り返される。

『医者に毒殺される』

 まさか、そんなまさか、まさかまさかまさか!

「その注射器の中身は何なんですか!」

 その質問に、医師は口元だけの笑みを返した。



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