第五章 「六ノ二は間違わない」

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 西家数雄が日本に帰国してから一週間が経った。
 それは同時に、浦谷太郎が西家の元を訪れてから約一週間が経つことも意味している。

 警察に手配をかけられているはずの浦谷だが、未だに見付かっていないという。
 警察官が西家の元に現れる回数も次第に減り、西家数雄に普段通りの生活が戻りつつあった。

 しかし、どんなに西家の生活が落ち着きを取り戻そうとも、友人だった義田秋仁と士井治が死んだことに変わりはない。
 それは動かしがたい事実であり、変えられぬ過去だった。

 義田の時は海外に居て参加出来なかったが、士井の葬儀に西家は参列した。
 他殺と思われる変死であった為、葬儀は緊張と悲しみに包まれた沈痛なものであった。
 泣き崩れる士井の家族に、西家はかける言葉が見付からなかった。

 昨日、西家の元に現れた富竹と守井、両刑事から聞いた話だが、
 士井と共にいた順中尾と名乗った人物もまだ見付かっておらず、捜査は行き詰まっているらしい。

 とにかく、重要参考人の浦谷を見付けないことには話にならない。
 そんな捜査方針の警察は、あと数日、浦谷が見付からなければ公開捜査に踏み切るらしい。
 それは浦谷を殺人犯と決めつけた対応だった。

 西家は浦谷が犯人でないと信じている。
 だが、西家のような一般市民が警察の捜査方針に難癖を付けたところで、
 西家の意見など警察が採用するはずがなかった。

「浦谷の奴、大丈夫かな……」

 西家が友の身を案じた言葉を聞く者は誰もいない。
 西家はこの一週間、ほとんど自宅に閉じ籠もって過ごしていた。
 身の回りで人が死んでいるのに、ふらふらと出掛ける気にはなれない。
 電話で仕入れの連絡と商品発送の指示を出し、自宅で事務処理をすれば仕事が滞ることもなかった。

「しかし、腹へったな」

 部屋で経理帳面の確認をしていた西家だったが、胃の下が妙に重かった。
 ここ最近、食欲がなかったのでろくに食べていない。
 恐らく、事件のストレスが西家の体を蝕んでいたのだろう。
 未だに食欲は減退しているが、空腹ともとれる胃の痛みに、何か腹に入れた方がいいと感じた。

 重たい体を持ち上げてキッチンストッカーを探してみる。
 帰国してから一度も買い物も言っていないので、なけなしのインスタント食品はこの一週間の食料として消えていた。
 冷蔵庫の中も見事にスッカラカンだ。

「スーパーにでも行くか……」

 西家はコートを羽織ると、一人暮らしのマンションを出た。
 寒風吹きすさむ中、空は冬特有の透き通った晴天が広がっていた。

 西家を張り込んでいる警察官に出掛ける旨を伝えようと、いつも覆面パトカーが駐車してあった路肩に向かうが、それらしい車が見当たらない。
 不審に思った西家は、携帯電話を取り出すと一週間前に聞いた電話番号にダイヤルした。

『はい?』

 受話器越しに、不機嫌な声が聞こえてくる。
 電話に出たのに名乗りもせず、その女性は返事だけをした。

「あっ、あの……」

『誰?』

 西家が口籠もると、更に荒々しい声で誰何(すいか)された。

「あ、あの……、西家といいますが……」

『えっ? あっ、西家さん? ……はい、富竹です』

 電話の相手は大阪府警の富竹だった。
 電話対応から察すると、西家に電話番号を教えたのをすっかり忘れていて、知らない電話番号からかかってきたと、ぞんざいな対応をしたのだろう。

『何かありましたか? 浦谷ですか?』

「いえ、買い物に出掛けようと思いましたら、警察の方、誰もいなさそうなんで」

『そ、そうですね。今は南港で……』

 何か言いかけた富竹の声が急に遠ざかる。背後で何か話し声が聞こえてくる。
 どうやら捜査情報を富竹が漏らしそうになったのを、とがめられているようだった。

『えっと、すいません、西家さん?』

「はい」

 仕切りなおした富竹が電話に返ってくる。
 声に僅かな動揺が残っていた。

『ちょっと、今、人員が足りてませんので、西家さんの警護に人が回せていません。
 必要のない限り外出は控えてください。
 それと浦谷から接触があれば、この番号でいいのですので、直ぐに連絡をください』

「はい、わかりました。それでですね。食料の買い出しって必要ですよね?」

「…………はい。お気を付けて」

 十秒ほどの沈黙のあと、富竹の返事が返ってくる。

 さすがに生活用品の買い出しを制止されるほど、西家の状況は危険とは言えないし、立場も悪くない。
 ただ、友人が二人死んで、その重要参考人も友人なだけだ。

 さてと、どうしたものか……。
 電話を切った西家は再び蒼い空を見上げて考え込む。

 富竹刑事の言葉を信じるなら、今、西家に尾行は付いていない。
 この一週間出掛けなかったのは、事件のショックで何もやる気が起きなかったのと、警察の張り込みに付きまとわれるのが嫌だったからだ。

 警察が尾行していないなら、西家には行きたい場所があった。
 富竹を信じるか信じないか、西家の心象として微妙な所だった。

「警察が俺を騙して囮捜査なんてしないか。第一、俺、浦谷の居場所なんか知らないし」

 そう考えが落ち着いた西家は、早速行動を開始する。
 コンビニでパンと飲み物を購入して無理矢理胃に詰め込むと、西家はその足で最寄り駅である大正駅に向かった。

 大正は、決してキタやミナミのような栄えた繁華街ではないが、
 それでもドーム球場などの大型娯楽施設もあり、商業地区が集まる表通りに出れば活気に満ちあふれている。
 身近な人が死に、気分が冴えない西家にも、街はおこぼれのように元気を分けてくれる。そんな気がした。

「そっか、もうすぐクリスマスか」

 いつの間にか、カレンダーは一月(ひとつき)めくれて師走へと変わっていた。
 街のそこかしこには、早々と赤い服を着た白髭のイラストがあちこちに現れていた。

 駅へと向かう道すがら、西家は一昔前に流行ったクリスマスソングを口にしてみた。
 ひどく懐かしいフレーズに、落ち込んでいた気分が少しだが晴れたことに、歌の持つ不思議なパワーを感じずにはいられなかった。

 平日の昼となると、駅のホームに人影はまばら、
 西家と共に電車に乗り込む人間も一桁となり、平穏な午後の空気が漂っていた。
 列に並ばずともすんなり入れた車内は、暖房の熱気が行き渡り、逆に暑いぐらいで西家のコートを剥ぎ取った。

 車内から見える風景は代わり映えせずいつも通り。
 友人二人が死んでも、この世界になんの影響もないんだと西家は痛感した。

 もし自分が死んでも、何にも変わらないんだろうな。
 皆、仕事や学校に行って、そして家に帰る。誰が死んでもそんな毎日が続くだけ。
 そんなことを考えると、折角晴れた気分がまた悲しい気持ちに逆戻りだった。

 JR阪和線を南に下った西家は堺市駅で下車をした。
 西家は念の為に目的地の少し前の駅で降りたのだ。あまり深い考えがあったわけではない。
 警察が張り込んでいる可能性のある駅に近付きたくなかっただけだ。
 もちろん、そこまでやる必要性はないのだろうが、警察の助言を無視して出掛けるのだ。
 この際、徹底的にやるのもいいのではないか、と西家は思う。

 そんな人目を忍ぶ行動は、自身が犯人になったようで、不謹慎にも高揚感があった。
 堺市駅から線路沿いの道を西家は歩いていく。
 堺市の中心部に近いにも関わらず、田圃が多く残っている。
 夏になれば稲の緑と蛙の鳴き声が、辺り一面を占めるだろう。

 その道は昔懐かしい道。もう十数年もの昔に自転車で走り回った思い出深い道だった。
 これから向かう先は、自身の実家。
 小学生時代の同級生ということからも分かる通り、西家の実家は義田と士井の実家、
 そして浦谷の現住所の近所である。

 今そんな所に近付けば、警察に目を付けられるに決まっている。
 別にこれからやましいことをするわけでもないが、警察に周りをうろうろされるのは生理的に避けたかった。
 だから、西家は警察の張り込みが緩むのを待っていたのだ。

 古い二階建て住宅が条里を敷いて並ぶ住宅街に西家の実家はあった。
 住宅の建て替えが進み、西家の思い出に残る街並みは少しずつ姿を変えていくが、それでも実家に近付くにつれ、安心と哀愁をひしひしと感じてくる。

 実家に着き、勢いよく玄関を開けようとした西家は、施錠に阻まれ、近所迷惑な騒音を鳴らしてしまった。
 鍵が掛かっているということは、どうやら両親は出払っているようだ。
 急に実家に帰ると決めたので連絡もしていない。平日の昼なので無理もないことだった。
 出鼻を挫かれ、西家のテンションは急降下だった。渋々鍵を取り出して玄関を開けた。

「ただいま」

 西家の帰宅の挨拶に返事をする者は、やはり誰もいなかった。
 一応、居間や台所を覗いてみたが無人の静けさだけが広がるのみ。
 折角、実家に帰って来たのに拍子抜けの一言に尽きた。

「まあ、いないならいないで仕様がないか」

 誰に聞かすでもない言葉を吐いて、西家が実家を出てから納戸となりつつある自分の部屋に向かった。
 ドアを開けると、見知らぬ段ボールの山が西家を出迎えた。

「また、増えてるな。これどうにかしないと、こっちには帰って来れないよなぁ」

 先週日本に帰国する前は、そろそろ一人暮らしのマンションを引き払って実家に戻ってこようかと考えていたが、
 その前に実家での受入準備をしないとそれは叶いそうになかった。

「それはまた今度か……」

 今日実家に帰ってきた目的は引っ越しの準備ではない。
 西家は段ボールを足で横に蹴り寄せて部屋奥への通路を作ると、薄れた記憶を頼りに家探しを始めた。
 押入、机の引き出し、段ボールの中。
 あちこち探してみるが目的の物は、なかなか見付からなかった。

「どこにやったんだ?」

 記憶を頼りに探しても、影も形も見当たらない。
 数年前の自分をこの場に連れてきて問い質(ただ)したいぐらいだった。一体どこに仕舞ったのだろうか。
 捨てたはずはないのだか、記憶を頼りに探して見付からないという実績を考えると、捨てた記憶がないという記憶も宛にならないように西家は思えてきた。

「待て待て。冷静になるんだ。こういうときは発想の転換を……」

 気持ちを落ち着けて、改めて部屋の中を見渡せば、本棚に並んだ学生時代の参考書に混ざって、
 少し日焼けした白い無地の背表紙がはみ出していた。

「馬鹿か、俺?」

 始めから目に付く場所にあったのに、どうして気付かなかったんだ。我ながら、ほとほと呆れてしまう。
 西家はこの小一時間の苦労が無駄であったと頭が痛くなる思いだった。

 落ち込んでいても仕方がない。
 西家は本棚に手を伸ばし、背表紙だけでなく表紙自体も真っ白な本を取り出した。

 詳しくは知らないがコピー誌と呼ぶ形態の本らしい。作ったヤナがそう言っていた。
 そう、西家が探していたのは三年前に死んだ友人・柳沢禎埜が書いた自作小説だった。

 西家は一週間前に会った浦谷が言っていたことが気になっていたのだ。
 浦谷は警察に容疑者扱いをされていると知りながら、わざわざ西家に会いに来て質問したのだ。
 「ヤナの小説を覚えているか」と。

 あんな状況の中、浦谷が全く意味のないことを言うはずがない。
 だから西家は柳沢の書いた小説を探しに来た。恐らく、この小説の中に何か事件のヒントがあるはずなのだ。

 西家は、期待と懐かしさを胸に、安っぽい紙の表紙をめくるのだった。



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