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「うわぁ、結構高いですね」

「守井くん。落ちてみる?」

「トミーさんも一緒にどうです?」

 何それ? 私と飛び降り心中でもしたいわけ? そんな言葉を吐きかけて、富竹は思い留まった。
 どうせ、守井は何も考えずに言っているだけに違いない。そう気付いたのだ。

 守井は会社ビルの屋上から下を見下ろし、富竹を手招きしていた。
 そのお気楽ぶりに富竹は頭を抱えたくなる。

「ごめん、『落としていい?』の間違いだったわ」

 そんな威勢のいいことを言いながらも、富竹は屋上の中央に陣取って動かなかった。
 そう、富竹は高い場所が苦手なのだ。

 守井と富竹は事件現場である屋上を訪れていた。
 高層ビルに囲まれ、見た目こそ新しげに見えるこのビルは、建設自体は少し古く、年季が入っている。
 だからだろうか、周りから一段低く決してよい見晴らしではなかった。
 しかし、サラリーマンたちの職場たる各フロアよりも、屋上の方が遙かに解放感があるのは間違いない。

 川絹に話を聞いた後、二人はよく屋上でバレーボールをしていたという女性数人に話を聞いたが、有力な情報は何も得られなかった。
 一言で言えば「何も知らない」そうだ。
 たったそれだけのことを聞き出す為に小一時間も女性社員たちの相手をさせられて、富竹は心底疲れた様子だった。
 同じ女性とはいえ、富竹は生真面目な性格だった。
 普段から積もり積もっているOLの鬱憤のはけ口にされたのでは身が保たない。
 それに対して、守井は愛想良く女性社員を相手にし「カワイイ〜」と好評を得るあたり、守井のスマイルもなかなか侮りがたし、と富竹は思うのだった。

 そして事件が起きた現場となる屋上へと足を運んだ。
 事件直後の現場検証後、屋上への扉は施錠されており、立入禁止となっている。
 鍵は会社契約の警備会社が管理しており、事件後に屋上に出入りしたのは警察関係者のみだという。
 警備契約をしているのなら、ちゃんと警備員を派遣して防犯カメラも整備しろ、と叱咤(しった)したい気分だったが、いくら警備会社に文句を言ったところで、起きてしまった事件はなかったことに出来はしない。

 近年、企業による屋上緑化が進んでいるが、この社屋の屋上は給水塔以外、目につく物はなく、殺風景な場所だった。
 屋上のぐるりには転落防止用の大型フェンスが設置されている。
 そして、そのフェンスの一部がなぎ倒されている部分がある。
 そう、義田秋仁が押し倒してしまったと見られている場所だ。その真下で義田秋仁の死体が発見された。

 当日、この屋上に誰もいなかったとみられている。
 誰も屋上に出たという者はおらず、屋上に行く義田を見たという証言すら一つも出ていない。
 従って、屋上には義田一人だったと考えられていた。

 物証として発見されたのは、地面に叩きつけられた遺体、なぎ倒されたフェンス。
 死体の側に転がっていたフットサルボール。
 そして、部外者のものと思われる靴跡。

 部外者の靴跡があったからといって、義田が屋上から落ちたときに、誰かが屋上にいたとは限らない。
 その靴跡の主が誰で、いつ付いたのか。それが確定しない限り、なんの証拠にもならないだろう。

 そして「リフティング事件」という通称の原因となった「義田がリフティングをしていて誤って屋上から落ちた」という説は全くの推測でしかない。
 その説を正式採用するには、なぎ倒されたフェンスが邪魔をしていた。

「これ、ちょっとやそっとじゃ、倒れませんよね?」

 守井は倒れていない部分のフェンスを揺り動かしながら富竹に同意を求める。

「ちょっと、守井くん。素手で触っちゃ駄目でしょ!」

 遠巻きに言いながらも、やはり富竹はフェンスの方に近付いて来なかった。

「え〜 別にいいじゃないですか、所轄の現場検証は終わってるんだし」

「もう、何言ってるんだか」

 なんとも緊張感のない言いように呆れる富竹だったが、守井の指摘したフェンスの耐久性の問題には同意見だった。

 ビルの屋上に設置されている転落防止フェンスは頑丈に作られている。
 寄りかかったぐらいで倒れるなんてことはありえない。
 いや、全力で体当たりしても普通は倒れたりしないだろう。そういう目的で作られた代物だ。

 事故直後の現場検証でもその点が問題になったようだが、所轄鑑識課の見解はフェンスの老朽化だった。
 留め金が腐食して錆びていたのだ。

 単にフェンスの老朽化が原因となれば、会社側の管理問題にもなったであろうが、
 今回の事件では、死んだ義田秋仁が、屋上という場所では危険と言えるリフティングを行っていたと推測された為、今のところ会社側の問題とはされていない。
 遺族が民事訴訟でも起こせば別だろうが、今のところ、そういう話は出ていないそうだ。

 ただ、守井と富竹の目には、老朽化したとはいえ目の前の転落防止フェンスが簡単に倒れてしまうようには写らなかった。
 事実、事件で外れた所の直ぐ隣のフェンスを守井が揺り動かしてもフェンスはずれる気配すらない。
 たった一枚だけが特に腐食が進んでいて、そのぶつかってはいけないフェンスに偶然、義田がぶつかった。
 なんていうのは都合が良すぎる話だろう。

「どう思う、守井くん?」

「難しいですね。これが事故でないとすると、死んだ義田氏はフェンスを自ら押し倒して、それから飛び降りたってことになります。
 遺書も残さず、靴も脱がず……。
 そして他殺なら、犯人がフェンスを壊したか、揉み合いの最中フェンスを潰してしまったか。
 それではフットサルボールは……擬装?」

「それ、なんか無理あるのよね」

 富竹は疲れたように言う。
 言った本人である守井自身も、失笑を漏らしている。それこそ到底論外の説に聞こえる。

「しかし、このフェンス以外、ほんと何もないわね」

「鑑識の調べでは義田氏の指紋や靴跡は、屋上のそこら中から見付かったらしいですね。もちろん倒れたフェンス付近からも」

「それで結局、大量の義田さんの足跡に紛れて、例の部外者の靴跡も屋上のあちこちから見付かったのよね。
 ……二人でサッカーでもしてたのかしら」

 富竹は冗談のつもりで言ったのだが、守井は「それは考えつきませんでした」と顔を引き締めた。
 義田秋仁は誰かと、この屋上でボールを蹴っていたというのだろうか?

 富竹は所轄署から配布された現場資料に目を落とす。
 清水課長が強引に送り込んだ本部の鑑識も手伝ったので、現場周辺の捜査は綿密に行われていた。
 しかし、屋上の吹きさらしでコンクリート地面という痕跡の残りにくい条件が重なったのだろう。
 ゲソコンを取るのがやっとの状況だった。

「この場所に私たちの出番はないわね。鑑識が通った跡には塵一つ残らないんだから」

 現代日本の優秀な科学捜査能力は世界トップクラスだ。殊、現場を調べるということに関して、二人の出る幕はないだろう。

「次、行きましょうか」

「次? 何か当てでもあるの?」

 富竹は何の期待感もなく守井に尋ねる。

「被害者の自宅です」

 守井の簡潔な答えに富竹は納得する。
 確かにそれ以外に思い付きはしなかった。
 今日は所轄が捜査令状を取って、被害者宅の捜査を行っているはずだった。
 それに便乗するのも悪くない。むしろ所轄との連携を考えるなら顔ぐらい出しておくべきだろう。

 二人は何もない孤独感漂う屋上を後にした。
 ここで何が起こったのか、絶対に突き止めてみせる。そんな決意と胸に秘め。


 義田の自宅は大阪市の南端、あと数百メートルで水質汚濁で悪名高い大和川という場所にあった。
 大阪湾岸地区の一つ、住之江区の区役所に近く、目で見えるほどだ。
 数分歩けば住之江公園や競艇場もある住之江の中心地。
 どちらかといえば湾岸の工業地区のベッドダウンという性質が強い街に、義田の住んでいたマンションはあった。

 団地の中に同じデザインで並ぶ築二十年を越すマンションは、壁にひびが走り、その年月を物語っていた。
 それでも住まうには、なんら問題はない。むしろ、スタイリッシュで一昔前には人気の物件だったであろうことが窺える。
 平日の日中とはいえ、遠くに聞こえる子供の遊び声以外、物音は聞こえず、人影は見当たらない。

「意外に静かね」

 コンクリートの狭い階段を上る富竹は正直な感想を述べる。
 それに守井は愛想笑いを浮かべるだけだった。

 階段を上りきると視界が開ける。
 五階建て住宅が並ぶこの地区では、五階まで上がれば空を遮るものは何もない。
 見晴らしが特別良いわけでもないが、どんな建物でも、最上階というのは何かしら特別の一景がある。

 二人が同じデザインのドアが並ぶ共用通路に出ると、通路の一番奥に警察関係者の姿が見え隠れしていた。
 規定の作業着は、二人には馴染みを通り越して、強い仲間意識を呼び起こすものだった。
 そこに知った顔を見付けると、二人は小走りに急いだ。

「ラガーさん」

 守井の明るい声が静かなマンションの壁に反射する。

 被害者宅と思われる部屋の前に、本部鑑識課の白髪有助がいた。
 彼も所轄への応援に来たのだろう。『ラガー』というのも、守井が付けたニックネームで、白髪という名前をもじっただけのもの。
 そのニックネームの所為で白髪はよくラグビー経験者と間違われていた。
 細身の白髪が本当にラガーマンだとすれば、その意外性はなかなかのものだろう。

「うす。お二人さん。どうやら事件、決定っすよ」

「どういうこと?」

 富竹は白髪に問い返す。
 白髪の言葉は守井にも意外だったのだろう。いつも浮かべている笑顔が消えていた。

「中に入れば、そりゃあもう……」

 白髪は二人を視線で誘導するように、義田秋仁の部屋へと入室を促した。
 守井と富竹はそれに従い、廊下に渡されたイエローテープをくぐる。

 狭い玄関を過ぎれば、細い廊下の両側に、台所と風呂、トイレらしきドアが並ぶ、極々ありふれたマンションタイプの間取りがそこにはあった。
 そして突き当たりには居間が二つ連なっている。
 一人暮らしには少し広い印象を受ける。

 居間には捜査主任の浜妻と共に数人の刑事がいた。皆、眉をひそめるように難しい顔をしていた。
 その理由は問うまでもなかった。
 室内の家具は倒れ、本棚に収まっているはずの書籍は部屋中に投げ出されていた。
 会社の書類もあるのだろう、白い紙は部屋中に散らばり踏み荒らされている。
 部屋の中央にあったはずの一人こたつも腹を向け、壁に寄りかかり妙な角度で存在した。

 そう、部屋にある全ての物が、ひっくり返るように散乱している。
 まるで絵に描いたような散らかりぶりだった。
 窓を覆い隠すはずのカーテンに至っては半ば裂けて破れ、その裂け目から漏れ入る夕日が妖しく室内を照らしていた。

「浜妻さん……。これは随分、散らかしましたね。何か見付かりましたか?」

「バカ、守井。捜査でこんなことするわけないでしょ! これが『現状』よ」

 守井は冗談で言ったのだろうが、富竹は叱咤せずにはいられなかった。
 今、目にしている惨状を前に不謹慎にもほどが過ぎた。

「二人とも、会社の方はどうだった?」

 浜妻は二人のやり取りを気にする様子もなかった。守井は今日の成果報告をする。
 成果といっても、被害者の勤め先では、既に行っていた所轄の聞き込み以上の証言は得られていない。

 守井の報告を聞いた浜妻は、肩をすくめた。

「見ての通り。やっと令状が下りたと来てみれば、これだ」

 室内の異常さに、一同は認識を新たにする。
 この『リフティング事件』がただの自殺、事故ではないということを。

「あれ? 遺書は発見されなかったって聞いていたんですが、事件後に部屋の捜査ってどうされていたんですか?」

 一人暮らしの人間が死んだ場合、死んだ人間の家宅捜索は手早く行われるのが常だ。
 誰も家宅捜索に文句を付ける人はいないし、借家だった場合、大家も出来るだけ早く事件を収めたいとの理由から、捜査には協力的な場合が多かった。
 今回の事件、被害者が死んで今日が四日目。そのタイムラグに守井は違和感を覚えた。

「鍵がね、取り替えられてたんですよ、大家に断りもなく」

「鍵ですか?」

「玄関から、窓から全ての鍵が、死ぬ数日前に取り替えられていたらしい。
 窓なんて全部防犯ガラスという、おまけ付き。
 おかげで、正式に家宅捜索令状を取らないといけなかったり、鍵を開ける手配をしたりで、今日初めて部屋の捜査に来たわけですよ」

 おかしい。
 死ぬ直前に急に防犯意識に目覚めるなんてありえない。絶対におかしい。

 義田秋仁は知っていた?
 自分が死ぬことを知っていた?

 義田秋仁は自らが殺されることを知っていた。
 そう考えるのが当然の成り行き。

 なんてことだ。義田秋仁は殺されたのだ。
 そして所轄は部屋の防犯化を知っていながら、その情報を本部に上げていなかった。
 これは隠蔽。本部からの応援がなければ、所轄は揉み消した可能性もあった。
 そんな他殺の疑いに直結する情報を知りながら、事故で済めば事故で済まそうと考えていたのか。

 富竹は自らの歯の軋む音を聞いた。

 清水課長はこれ危惧していたのか。
 所轄署の捜査経緯に違和感を嗅ぎ付けていたのだ。
 富竹は刑事の大先輩たる清水課長の手腕に感心の念を抱いた。

 これなら応援は誰でもいい。本部がこの事件に興味を示していることさえ所轄に知らしめれば、所轄署だって馬鹿じゃない。自ずから捜査を立て直すはずだ。

「浜妻さん、鍵の件は以前から分かっていたのですか?」

 守井は富竹が出来ないでいた質問をした。
 さすがに、守井の口調にも不快感が見え隠れしていた。

「そりゃね。被害者宅の捜査は基本でしょ。
 でも、鍵を変えたぐらいじゃ、なんの証拠にもなんないでしょ」

 浜妻の言い分にも一理あった。鍵の取り替え自体になんの証拠能力もない。

 それでも、それでも……。富竹は如何とも出来ない歯がゆさに苛まれた。

 しかし、そんなことは世の常だった。その怒りを当人にぶつけても何も解決しないのを富竹は承知していた。
 それでも腹の虫は収まらず、富竹は思わず浜妻から目を背けた。

 苛立たしくあっても、それで職務を放棄するわけにはいかない。
 富竹の視線は義田の室内を『何か』を求めて彷徨った。
 その視界が壁に掛けられたカレンダーを映し出す。
 そこには数字が手書きされていた。

「『6』、『2』。……いえ、『6の2』?」

 被害者の義田が書いたのだろう。事件の丁度一週間前、十一月十七日の日付の下に『6-2』という文字が小さく鉛筆書きされていた。

「ああ、それは被害者が所属しているフットサルクラブのことだろうね。確かそんな名称でした」

 浜妻が富竹の疑問に答える。
 義田秋仁はフットサルクラブに所属しているのは、マスコミですら報道している基本的な情報だった。

「数字がクラブ名ですか、珍しいですね。6-2なら答えは4ですね」

 計算式はともかく、守井の感想に富竹も賛成だった。
 珍しいというより変な名称だ。ネーミングセンスの欠片も感じない。

「明日はそっち関係、あたってもらうからな」

「了解です」

 守井の返事はいつものように明るかった。そこに鑑識課の白髪が入ってきた。

「浜妻さん、一通り終わりました。もう動かしてもらって結構です」

 いつも砕けた口調の白髪も、所轄相手にかしこまっていた。
 普段は見られない彼の様子に、富竹の口元は緩む。

 白髪は別に媚びを売っているのではない。所轄署の女の子を引っかける為に、虎視眈々と所轄署へのコネを作ろうとしているのだ。
 そんな裏事情を知っているから、余計に白髪の態度がおかしかった。

「よし。押収物の選定、急げ。本部のお二人はこのマンションの管理人に話を聞いて来てもらおうかな」

 浜妻は連れていた刑事と二人に指示を飛ばす。
 その指示内容に富竹ばかりか、守井ですら顔をしかめた。

「どういうつもりです? 我々だけ別の捜査に当たらせるのは、なんらかの意図を感じざるを得ません。
 それに、大家への聴取も既に行われたことなんじゃないんですか?」

 富竹は思わず声を荒げた。
 それを失態とも思わず彼女は浜妻を見据える。

「富竹巡査部長。私は命令したつもりなんだけど」

「え?」

「それとも君は、警部の私に逆らうつもりかな? そういうことは昇進してからにして欲しいね、本部さん」

「こ、こ、この!」

 もう限界。この馬鹿、いっぺんシバかないと! 頭に血が上り、心中そう叫ぶ富竹は拳を握る。

「トミー!」

 誰の声か、わからなかった。
 聞いたことのない声だった。自分を『トミー』なんて呼ぶ人間は一人しかいないのに。

 肩を誰かにつかまれていた。
 邪魔だから振り払おうと、その手を振り払って気がついた。
 いつもニコニコ笑っている守井の目が笑っていなかった。初めて見る真剣な眼差しだった。

 富竹も馬鹿じゃない。守井の言いたいことはすぐにわかった。
 顔を伏せ、富竹は何も言わず義田秋仁の部屋を跡にした。
 そう、それはまるで逃げるように。
 守井もそれを追いかける

「管理人は一階の赤本(せきもと)って所ですよ」

 浜妻の声は場違いなほど明るかった。
 それが聞こえても、富竹は止まる気配すら見せない。

「トミーさん、トミーさん! ちょっと待ってください。気持ちはわかりますが」

 守井の言葉を無視して、富竹は怒りにまかせイエローテープを引きちぎる。
 一分一秒その場にいたくないと言いたげだった。

「守井ぃ。その呼び方止めろって言ってるだろぉ」

「富竹さん、ちょっと怖いですって」

 富竹の形相に守井は縮こまる。
 先ほど見事に富竹を制止した面影は全くない。それはいつもの守井だった。

「わかってるの! この扱い!」

「……締め出しですね。僕たちには、まともな捜査をさせるつもりがない。
 今の僕たちに捜査方針に異論を上げる権限はありません。
 そもそも衝突する権利すらない。
 だからこそ、課長は僕ら新人を選んだんです。
 この事件で本部と所轄に遺恨を残さないために。
 衝突がないんです。遺恨は表面上残るはずがありません」

 その言葉に富竹は足を止め振り返った。
 富竹の瞳が守井の目に映る。

「なんで、あんたはそんなに、……冷静なのよ」

 飄々とした守井の態度を見て、富竹の上った血も多少は冷めたのだろう。普段の口調に戻っていた。

「トミー姉さんも解っていたことじゃないですか。所轄と本部の確執ぐらい」

 守井の言葉に、富竹は目を伏せる。

「まさか……。ああいうやり方とは、思ってなかった。
 ……面と向かっていびってくれた方が、まだましよ」

 富竹の目が赤くなっていた。
 瞳は水気を増し、潤んでいる。
 富竹がそんな表情をするなんて、普段の彼女を知っている者は想像だにしないだろう。

「悔しいんですね」

「当たり前よ」

 なぜ守井はそんな当たり前のことを言うのだろう。

 どうして? なぜ? 富竹の心に戸惑いと疑問が巡る。

「一階ですよ」

 守井はそれだけしか言わなかった。

 彼はわざと富竹に背を向けて空を見上げた。
 十二月がすぐそこまでに迫った空は、とても高く澄んでいた。

「……わかってるわ」

 富竹の返事は、吹きすさむ木枯らしにかき消されそうだった。



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