第八.五章「悔恨」


 天才の条件とはなんだろうか?
 計算力か? 記憶力と言う人もいるだろう。
 洞察力がなければならないのかもしれない。
 しかし世間でどんな概念で天才が語られようとも、私は天才の条件に確固たる定義を持っていた。

 私の考える私の天才。それは「馬鹿で愚直なカリスマ」だ。
 他の事、一般常識で人間として必要とされている必要事項など放っておいて自分のテーマに専念してしまう馬鹿。それが天才。
 いくら失敗しても自分のテーマをあきらめず追い求める愚直さを持つ。そんな社会不適合者の側面を才能の一言で説得力を持たしてしまうカリスマ。それが天才だ。

 発明王と名高いトーマス・エディソンは言った「一%のひらめきがなければ、九十九%の努力は無駄である」と、
 つまりは九十九も努力してしまう馬鹿さ。一のひらめきを待てる愚直さ。
 そんな恐ろしく非効率な物言いに説得力を持たせたカリスマが天才なのだ。
 どうやらエディソンは私と同じ考えにあるようだ。

 では、私は自身が天才かと聞かれたら、「天才だ」と速答は出来ないだろう。
 私はあの実験の幇助者(ほうじょしゃ)という大馬鹿で、十年以上たった今でも可能性を追い求める愚鈍な男だ。
 あの男たちを言い包めたカリスマもあったのだろう。

 唯一足りなかったのは、結果を得る時間。
 だから急いだ。
 だから時間が欲しかった。
 私は一分一秒、失うわけにはいかなかったのだ。

 結果論で物事を語るのを、私は好まない。
 しかし、この世は結果がなければ何の意味もないことを、この十年で私は思い知らされた。

 私の失敗は何だったのだろう? 何を間違えたのだろう?
 私は自分の信じるところを突き進んで生きてきた。どんな状況でも諦めはしなかった。
 それなのに、私の望みは叶った試しがない。
 私の生き方全てが否定されているとさえ思えてくる。

 それでも私は諦めない。私の望みを叶える為になら、悪魔にだって魂を売り渡す。
 もし神が私の望みを聞き入れるなら、この身を人身御供として捧げるだろう。

 私は彼に問いただしたかった。なぜ去ったのか? なぜ諦めたのか?
 「彼さえいれば」その思いは今でも変わらない。

 ただ一つ言えることは、私はこれからまた罪を犯すだろう。
 それは平穏に生きる彼らを巻き込んで、私の勝手を貫くわがままなのかもしれない。

 どんな罪にこの手を汚そうとも、どんな責め苦を負おうとも、今度こそ私は私の望みを叶えよう。
 私生まれてきた意義を見出すために……。


第九章へ     トップに戻る