第二章「金井亜季(かない・あき)の場合」


 そこは懐かしい情景だった。

 私は確かに『そこ』にいた。
 『そこ』で暮らし『そこ』で死ぬんだろうと思っていた。
 でも、何の因果か、今、私は『ここ』にはいない。

 十年前のある日、世界は唐突に変化した。
 私の全てだったこの檻は錠前を失い、私は自由という名の捨て犬となった。
 私は私の知っていた世界の更に向こうに、また別の世界があるということを知った。
 そして、その世界も私には優しくなかった。

 それもこれも全部が全部、過去の事。
 過去を振り返るとか、過去を懐かしむとか、そういったことをひっくるめて、私は過去に囚われているのだろう。
 それが私の世界での私の役割なのだから。

 こうしてわざわざ足を運ばなければ、もう近くを通りがかることすらないだろうと思っていた。
 彼女から今回の事件のことを聞かなければ、もう一生ここに来ることはなかっただろう。
 今こうして、この場にいることに自分自身が一番驚いている。

 『安国総合医学研究所付属第二病院』そんな長ったらしい正式名称を口にする人は皆無に近い。
 皆はただ第一とか第二とか関係なく『安国病院』とだけ呼んでいた。
 そう、安国病院こそ、私の全てだった世界の名前だ。

 私は未だにイエローテープで封鎖された門の前に立っていた。
 あの事件から既に一ヶ月。
 当時は野次馬で人影の絶えなかった元病院も、今では元通りの廃墟に戻っていた。

 春がすぐそこまで来ているというのに、三月の風がやけに冷たく感じる。
 それこそ廃墟にお似合いの風、私の心象に似合い過ぎる風が吹きすさむ。

「亜季? 亜季なの?」

 不意に自分の名前を呼ばれた気がした。
 一瞬、風に乗ってきた雑音か、それとも私の幻聴かとも思った。
 しかし振り返ると、私の後ろに眼帯で片目を閉ざした女性がいた。

 金髪のポニーテールに高い鼻立ちの整った顔、医療用の白い眼帯とは、やや不釣り合いに思えたが、彼女ならそれすらも着飾ってみせる魅力がある。
 同性の私から見ても羨むのを通り越して呆れた美少女だ。
 特に寸胴の私には無いくびれたウェストが羨ましい。
 いや、あと一年で二十歳になる彼女に少女はもう失礼なのかもしれない。
 私とは違い、年々魅力的な女性へと変貌していた。

 彼女は悠木有紗。我が盟友にして、掛け替えのない親友。
 その彼女の青い隻眼(せきがん)が見開いていた。
 よほど私がここにいる事が意外だったのだろう。

「有紗、目は大丈夫なの?」

「え、えぇ。失明はしないだろうって、医者がね。
 まぁ、あんまり医者の言うこと信じれる気分じゃないけど」

「……そう」

 私は視線をイエローテープの先に戻した。

 あの建物の中で深山は死んだ。
 私、金井亜季にとっても、悠木有紗にとっても、浅からぬ縁のあの男が死んだ事件。

「現金なものね。一ヶ月前はあれだけ騒いでいたのに……」

 有紗はあの事件に何を思い馳せているのだろうか。
 事件直後は報道陣でごった返していたのに、安国病院の前も今は静かなものだ。
 私と有紗以外に誰もいない。
 まさに無人の墓場のようだった。それもそのはず、ここは私たちの墓標なんだから……。

 私の体は何かに操られる様に前に進んでいた。

「亜季、どうしたの?」

 私は有紗の言葉を無視して、警察が張ったのであろう立入禁止の黄色いテープをくぐっていた。

「ちょ、ちょっと、亜季!」

 何が私にそうさせたのだろうか?
 有紗の制止など聞く耳持たずで、私はアノ病院の中、私がいた私達の世界があった場所に向かっていた。

 小高い丘の上にそびえ続ける安国病院。外からの見た目はあの頃と大差はない。
 だだ、何とも言えない不気味な気配が無くなり、秋のような寂しい空気だけが漂っている。
 私の足はただひたすらに、あの場所を目指していた

 そこは安国病院の中でも、滅多に人が近づくことのない最深部。
 プロジェクトB管轄の特殊医療研究室、通称『実験病棟』。

 プロジェクトB? 実験病棟?
 全く安易なネーミングだこと。
 研究者のアイツらには叙述的センスの欠片もなかったのね。
 それとも名付け親は彼かしら?
 どちらにせよ、名称なんてこの場所自身が持つ意味と比べれば些細なことなんだから……。

 廃墟となった病院の廊下は十年間の汚れと陰気が混じり合っていた。
 薄暗いコンクリートが直角の立体を保つだけの存在。
 あの独特の薬品臭はもうしない。
 リノチウムに響くストレッチャーの音も今は幻だ。
 廃墟を歩み、誰一人存在しない病院を見ることで、私はアノ頃がもう過去の物だと言うことを実感し始めていた。

「亜紀、ちょっと待ちなさいよ。ここには来ないんじゃなかったの?」
 追いかけてきた有紗の声は、ただならぬ怒気を含んでた。だけど、それは私に対する怒りでないことを私は知っていた。
「……来れなかっただけよ」

 悠木有紗は私の代わりに怒ってくれる。私を心配してくれる。
 だからこそ彼女には嘘はつけなかった。私の呟きは私の本音だった。
 来たくても来れなかった。
 近付くのも恐かった。この病院のことを思い出しただけで夜も眠れなかった。

 あの男、深山浩が死んだ。
 それは決して終わりじゃない。それでも私はここに来る決心が付いた。
 アレから十年余り、私の中ではあの頃の記憶は色褪(いろあ)せることなく今でも生き続けている。
 それが悔しい。

 私は膝をついて、床に落ちていた板の汚れを払う。
 そこには予想通り『特殊医療研究室 第四臨床室』の文字が浮かぶ。

 なんだか懐かしい。
 昔なら拒否反応を起こしたであろうその名称も、私の中でただの虚しさと切なさに変わっていた。
 そしてプレートのあった場所の目の前。そこにある階段に視線を移す。

 闇への落ちる階段。
 地下へと続く入り口は、まるで黄泉比良坂(よもつひらさか)のようにこの世界とアノ世界を隔てていた。

 外は煌々と光を放つ太陽が支配する真昼という時間帯であっても、廃墟の地下、最深部へと誘う階段は漆黒色を讃えて、何人の侵入を拒んでいた。

 この下にアノ部屋がある。そう思うと緊張で心拍が高鳴り出す。
 未だに私にプレッシャーを与えようというの?

 私は過去に囚われた道化師。
 誰も私の存在など気にとめることもないのに私は踊る。
 過去から追いたてられて私は踊る。私の体は私の意などお構いなしに跳ね踊る。

 悲しいけどそれは現実。
 いくら自覚しようとも、過去のものと忘れようとしても、私は過去に縛られる。
 だから、だからこそ私は意を決してここに来た。

 地下へと踏み出すと、視界に闇が広がる。
 窓が一切無いこの区画は太陽の明かりなど届かない。
 それは私には懐かしい闇だった。

 光を奪う闇。それと共に在る。
 それがここにあった世界のルールだった。

 私を捉えていたルール。私を今でも放さないルール。
 ここには束縛という名の檻があった。
 比喩などではない本当の檻。
 ここは檻なんだ。

 不意のまぶしさに、目をそむける。
 なぜか廃墟となったはずの病院内で明かりが点いたのだ。
 何年間も交換してないだろう蛍光管は仄暗く、それでも確実に辺りを照らしていた。

「どうして電気が?」

「全く一人で先々行って。私、足も痛めてるのよ」

「ごめんなさい。気が付かなかった……」

 私には有紗を気遣う余裕がなかった。
 それだけこの場所が私の心に占める意味合いが大きいのだ。

「電気は私が点けたからに決まってるでしょ。ここの電気はまだ生きてるのよ……」

 有紗がなんだか口ごもる。
 彼女の言葉の意味を覚り、私の心に針が刺さる。
 締め付けられる思い。彼が死んだ意味を私は思い知らされる。
 泣きそうな私の背を有紗が軽く叩く。そしてにこりと笑って見せてくれた。有紗だってつらいだろうに。

 彼女にはいつも助けられる。
 ネガティブな思考に囚われている私を、彼女はいつも救い出してくれた。
 それは今も、昔も。ありがとう、有紗。

「亜季、ここに来るのはアレ以来?」

 有紗は私の横に立ち、手をぎゅっと握ってくれる。有紗の体温が心強い。

「ええ」

「もしかして感傷的?」

「かもね。有紗はどうなの?」

「私? 私はよくわかんない。
 私は亜季ほど深刻でないし、今はもう、どうでもいいかなって思ってる」

「そうね。あなたにはジュンがいるものね」

「やめてよ、そんなんじゃないわよ、アイツとは……」

 そう言う有紗は妙に嬉しそうだった。
 やっぱりアイツとはいい仲なんじゃない。

「もう、有紗はここに帰ってくることはないのね。
 ……私はまだ帰ってきてしまうの。
 無理に忘れようとすればする程、心はこの場所を離れられなくなるのよ」

 私の言葉を反芻(はんすう)する用に有紗は眼を閉じた。そして何かを決意して言葉を紡ぐ。

「そんなの悲しい。亜季の気持ちはよく分かる。分かってるつもり。
 私だって亜季程じゃないけど囚われていたもの。
 でも、皆それぞれの道を見つけたのよ。私だって、深山だって、それにアイツだって。
 あなただけが前に進めないなんて寂しすぎるよ。
 亜季、あなただって本当は……」

 悲しい? 私が悲しいの? 有紗の言葉は私の心をえぐる。
 私が悲しいのか、私は悲しくないのか、そんなのわからない。
 悲しいとか寂しいとか、本当は覚えているはずなのに忘れた気になっている。
 そうしなければ押しつぶされてしまいそうで恐かった。

 そんな私が失った感情を有紗が持ってくれている。今はそだけでいいと思っていた。
 だけどそれだけじゃ切な過ぎる。そう感じる心を私は思い出そうとしていた。
 だからこそ、私はここに来たのかもしれない。

 私には私の行くべき所がある。私には私の進む道がある。
 だからこそ私は、私のスタート地点を確認したかったのかもしれない。

 ここは私たちのゼロ地点、始まりの地。懐かしき我が世界の檻。そして、それは私たちの生まれ故郷。

 私は祈りながら扉に手を掛けた。
 私は何に祈ったのだろう?
 神様? 仏様?

 そんなの分かるわけないじゃない。私に祈るべきものなんて何一つなかったんだから、今までは。

 なら、これからはあると言うの?
 私が心寄せる存在がこの世に見つかるというの?
 もしそうなればいいとは思う。

 でも、私の存在は『楽観』ではない。『悲観』そのものが私なのだ。
 そんな私が心寄せるものが見つかるのだろうか?

 自然と階段の手すりを握る手に力がこもる。そして一歩一歩階段を確実に下りていく。
 それは私にとって死ぬ程つらい道程だった。

 背後から明かりが差し込み、私の足下から白き光の帯が背を伸ばす。
 そしてその帯はゆらりと私の視界を照らしだす。

「これは……」

 私は絶句するしかなかった。
 実験病棟と一般区画を隔てる最後の扉。それが無惨に形を変えて静座していた。
 どこを向いているかわからない位に捻れ曲がっている。
 重々しい金属で作られた扉は、その使命を果たせずオブジェと化していた。

 その湾曲した扉の脇から覗く実験病棟の廊下は、見るも無惨に荒れていた。
 ありとあらゆるモノを遮断するコンクリートの壁は砕け散り、十年前は全てを冷徹に拒んだ無機質な空気は、湿った陰気へと変わっていた。

 どうして……。
 病室の扉。冷たい床と壁。どんなに望んでも私を逃がしてくれなかった私たちの世界を隔離するモノ。
 私が故郷であり、私たちの檻の象徴なのに……。

 私たちがいたアノ場所は、私の記憶の中にある姿とはまったく違うものに成り果てていた。

「亜季……これがあの事件よ」

「え? でも、ここは…」

「ここで、アイツは死んだのよ」

「この……場所で……」

「そうよ。知りたい? アイツが死んだ時のこと。たぶん亜季にはつらいものになると思うけど」

 私はたぶん泣いていた。
 まだ本当の最初の一歩を踏み出していないのに泣いていた。
 有紗には気付かれないようにしたつもりだけど。たぶん有紗は気付いていたんだと思う。

「私だって、私だって未来に進みたい。
 私だって振り返りたくない。
 でもこれを終えなきゃ、私はあの人たちとは違って前に進めないもの」

「亜季……」

 もう春はもう直ぐそこまで来ていた。
 あと数日でサクラは咲き乱れ、草木の芽は青々とした顔を出す。
 私もそうなりたい。生きとし生けるモノの一つとして未来に向けて、精一杯生きたい。
 そうしていいんだよね、私?

「これは通過儀礼なの。
 私はアノ世界にサヨナラする為に、私はここに来たの」

 そう言った私、金井亜季はやっぱり泣いていた。


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