第十一.五章「彼女と僕」


 深い湖。日の光の届かぬ湖底。
 波もなく、何も見えない深海のような世界。

 静か、本当に静かだ。
 ボクは水面より遙か深く漂う藻屑だった。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと、ボクはただただずっと漂っていた。

 ボクはどうしてこんな所にいるんだろう?
 そう聞いて答てくれる人はいなかった。そこは本当に寂しい場所だった。

 ボクはずっと上ばかり見ていた。
 微かに見える明るい世界。水面の上には何があるんだろう。
 そう思っても、沈みきったボクにはその湖面がとてもとても遠く見え、見上げることしか出来そうになかった。

 多分ボクは、あの明るい世界に憧れていたんだと思う。
 憧れても手に入らない世界。
 そんなものもあるんだと、ボクは思い知った。

 ふと隣を見ると女の子がいた。
 ボクと同じように沈んでる女の子。無表情で体を小さく丸めている。
 放っておけばどんどん沈んで行きそうなぐらいに窮屈に丸まっていた。
 彼女に声をかけるのは不思議と躊躇わなかった。

「ねぇ。君は上に上がらないの?」

「私が上がれないから、あなたが先に行って」

 小さく弱々しい声で女の子が答えた。

「ボクもね。上がれそうにないんだ」

「そう、じゃあ別の人に言って」

「別の人?」

 女の子に言われて初めて気が付いた。
 その湖底には他にも二人が沈んでいた。
 さっきまでボク一人だと思っていた暗闇の世界は急に騒がしくなった。

「君はここが居心地いいの?」

 ボクが声をかけた子はニコニコと笑っていた。
 だからそんな風に聞いた。
 でも、その子が首を横に振った。

「じゃあ、どうして笑ってるの? 上に行きたくないの?」

「笑っている方が楽だもん。
 そりゃ、ここは暗くて何もなくて寂しい所だけど、上に行くのは凄く疲れるよ。
 それに上に出たら、たぶんもっと大変なことがあるよ。
 ここで静かに暮らすのもいいんじゃない?」

 ボクはその子の言うことがよくわからなかった。

「オマエらうるせぇんだよ」

 怒鳴り声をあげる男の子がいた。その男の子はとても怖い目をしていた。
 ボクはそんなに大きな声で喋っていたつもりはなかったけど、彼は本気で怒ってるみたいだった。

 ボク、いじめられるんじゃないかと思ったけど、ボクが黙ると彼は直ぐに寝てしまった。

 ボクを含め、四人になった湖底。
 寂しくなくなったのはいいけど、四人いても、みんな沈んで漂っているだけ。ボクと同じだった。

「ねぇ、どうやったら上に行けるんだろう?」

 ボクが聞いても

「知らない」

「もがいてみたら?」

「勝手にしてろ」

 と、返事が返ってくるだけ。

 やっぱり僕らは沈んでいるしかないのかな?

「お前は本当に、上に行きたいのか?」

 怖い男の子が聞いてきた。
 ボクは少し考えて「行きたい」と答えた。
 自分でもどうしてここがダメなのかはわからなかった。
 けれど、ここにいても何も変わらないから……。

「だったら、アイツに頼みな」

 アイツ? 怖い男の子の後ろに、うっすら横たわった人影があった。
 でも暗くてよく見えない。

「あの人に頼めば、上に行けるの?」

「さぁ? 可能性はあるんだろうな。それがアイツの存在意義なんだから」

「ソンザイイギ?」

 彼が何を言いたいのか、よくわからなかった。
 それでもボクは彼が嘘をついているようには見えなかった。

「ねえねえ。君なら上に行けるの?」

 ボクは暗がりにいる人影に声をかけた。

「も……ぃ」

「え? 何て言ったの?」

 闇に溶けた人影の声は恐ろしく小さかった。

「もう遅いのです」

 再び人影が言葉を口にすると、今度はなんとか聞き取れた。
 その声はボクよりずっと年上で大人の声だった。

「我々はここに長くいすぎました。もう手遅れですよ」

「もう無理なの?」

「我々の力では、もう……」

 彼はとっても悔しそうな声を出した。

「そう、なんだ」

 それに比べ、ボクはあまり悔しくも悲しくもなかった。
 上に行けないならもうこのまま沈んでいるのもいいかもしれない。
 そんな気になってしまったんだ。

 それから何ヶ月、ボクは沈み続けたんだろう。
 飽きはない。ずっと同じ風景、同じ感覚。
 僕たち五人はずっと湖底を彷徨う漂流物だった。

 五人で色々話したけど、いつも出る結論も同じ。
 もうボクたちの帰る場所もなければ帰る方法もない。
 だったら、いつまでこの湖底で漂うだけ……。

 不意に、どこからともなく声が聞こえてきた。
 知らない女の子の声。
 「帰りたい。帰りたい」と繰り返し泣きじゃくる女の子の声だった。

「君も帰りたいの?」

 姿の見えぬ女の子にボクは問いかける。

「君も帰りたいでしょ?」

 泣いている女の子はボクにそう聞いてきた。
 もう五人で何万回も話し合われた問いなのに、ボクは少し戸惑った。

 ボクは素直に答えるのが怖くなっていた。

 ここからはもう出られない。
 それなのに、ここから出て帰りたいだなんて、口にするのが怖かった。

「……ジュン。コレが最後のチャンスかもしれない」

 年上の人がボクに言った。どうしてだか、ボクは生まれて初めて名前を呼ばれた気がした。

「どういうこと?」

「気付きませんか? 水面が近くなっています」

 その言葉にボクは上を見上げた。確かに水面が近くなっているように見えた。
 そして、その水面の上に、その泣いている女の子がいる気がした。

「今ならなんとか、上には行けるかもしれません」

「そう、なの?」

 ボクはその言葉が意外だった。

「ただ、上に行っても、家に帰れるかはわかりません。貴方の頑張り次第です、ジュン」

「うん、わかった」

 ボクは意を決して泳ぎ始めた。
 水面めがけて両手両足を懸命に動かした。
 湖底で漂っていた他の四人もボクの背中を押してくれた。

 頑張るから、諦めないから、みんなであの明るい世界に。

 ボクがそう願ったとき、水面に見えていた光が一層強くなる。
 その光の中にボサボサした黒髪の女の子が見えた。さっき泣いていた子だ。

「ボクはジュン。君は?」

「わたし、まさびしありさ」

 彼女は泣きはらした顔で名前を教えてくれた。

 ありさ。

 ボクは彼女の名前を一生忘れないだろう。


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