第五章「少女と少年と砂漠の決戦」

   *

 閉じた瞼の向こうから差す光に眩しさを感じ、オーディは意識を取り戻した。
 どうにも頭が、いや全身が痛い。
 どうやらオーディには慣れ親しんだ砂地の上に寝ているのが背の感触から知れた。
 ゆっくりと目を開けると、案の定、天上に輝く太陽が目に入り、反射的に顔を背けた。

 ここはどこだ。そんな疑問が思い浮かぶ。
 オーディが目を覚ましたの砂漠の中のようだ。しかし、どうしてこんな所で寝ているのか、いまいち記憶が曖昧ではっきりしない。
 確かなのはオーディの体中が鈍い痛みを訴えていることだ。
『大丈夫ですか?』
「いや、体が痛く……えっ?」
 かけられた声に反射的に答えようとしていた。そのことで急に現実に引き戻され、意識がはっきりとしてきた。
 その声はキャロル、あの『白の塔』の守護者である少女の声だった。だとするのなら、あの塔の中に入ったという記憶は夢ではなかったのだ。
 確かにオーディは『白の塔』に入り、そして……。

 意識が途切れる直前のことを思い出し、オーディは飛び起きた。
 ケルケ・カナトの魔法、そして塔に押しかけてきたムルトエの騎士団のことを思い出したのだ。
 自らの身に危険が迫っていた危機感も蘇り、オーディは辺りを見回した。
 あの魔剣を振るう将軍もいなければ甲冑の騎士団もいない。それどころか塔の中ですらない。ただただ広がる白い砂漠のど真ん中。全方位、どれだけ目を凝らしても地平線しか見えはしない。オーディがいたはずの『白の塔』は影も形もなかった。
 やっと自らの置かれた状況が把握出来始めたオーディは、自分が手に何か持っていることに気付いた。
 それは腕。あの白き少女キャロルの切り落とされたか細い右腕をオーディが握り締めていた。
「キャロル……」
 ラーク将軍の凄まじい斬撃で腕が切り落とされてしまった少女。人ではないとはいえ、無事では済まないだろう。
『はい』
「えっ!」
 自らの呟きに返事の声が聞こえたことで、オーディは驚きに身構える。咄嗟に構えた手からキャロルの右腕を取り落としてしまった。
『あっ 駄目で……、』
 またキャロルの声が聞こえて来るが、先程聞こえた声より弱々しく、まるで遠のいていくようだった。
「キャロル? どこにいるのんだ? 何が?」
 しかし返事はない。今一度辺りを見回してみるがキャロルはどこにもいない。
 また空に浮かんでいるのかと天を見上げるが、青々とした空がオーディを見下ろしているだけだった。
 その空には何か違和感があった。その答えに辿り着くのにオーディは一時の間が必要だった。しかしその違和感の原因に思い当たれば、益々その事実が不可思議に思えてくる。
「風がない……」
 『白の砂漠』が静か過ぎた。
 常に砂風が舞い、砂が吹き荒れる砂漠が凪ぐなど滅多にない。どれだけ風が弱まろうと、ここまでの無風などエルトの地に生まれたオーディでも今までに見たことがない。
 事実、砂漠のそこかしこに風によって出来た風紋があるのに、空がしんと止み、音が全くないのだ。
 静か過ぎて逆に耳鳴りがしそうなほど。
 生物を寄せ付けぬ白き砂漠。それが動きを止めたことで、まるで世界に自分一人しかいないと思えてくる。

「そうだ、キャロル。キャロル、どこにいるんだ!」
 先程は声が聞こえてきたのに、今は砂漠の静けさと同じようにキャロルの返事はない。どれだけ探しても、今砂漠にいるのはオーディ自身とキャロルの切り落とされた右腕だけ。
「まさか……」
 相手が地神ディフェスの眷属と目される少女である。彼女の力も再会してから散々目の当たりにした。
 いくらなんでもと思いつつ、オーディは白い砂地に落としてしまった彼女の右腕を拾ってみた。
『あぁ、やっと触ってくれまっ』
 急にキャロルの声が聞こえ、驚きにオーディはまたその腕を手放してしまう。するとキャロルの声も途切れるのだ。
 予想が確信へと変わり、オーディは今度こそ彼女の右腕をしっかりと拾い上げた。
『オーディ』
 喜び歌の名を持つ少女の声。
「キャロル!」
『お気付のようですが、残念ながら触れてもらわないとお話が出来ない状態です』
「大丈夫なのか?」
『私の安否を聞いて頂いているのなら、問題ありません。私はあの程度で死ぬことはないのです』
 あの程度と気軽に言うが、現にこうして右腕が肩口から切り落とさているのである。平穏無事なはずがない。
『しかし、状態としては最悪に近いです。私の能力が殆ど封じられています。本来ならオーディとの会話もいくつか方法がありますが、今は直に触ってもらわないと出来ないほどです』
 それは不思議な会話だった。腕から声が聞こえるわけではない。心に直接響くというのも違う気がする。言うなれば彼女の腕を持っている手から伝わってくるというのが一番近い気がする。
「そうか……。それであいつらは? ケルケ達はどうなってるんだ? それに俺はどうしてこんな砂漠の真ん中に?」
『申し訳ありません。まことに不本意ながら、オーディを塔から落とさせてもらいました。それで流砂に乗せてなんとかここまで』
「落とした? それでこんなにも全身が痛いの?」
『空中を運ぶ力も封じられていますので、着地だけでなんとかするしかありませんでした。オーディが普通より頑丈な方で助かりました』
 まさかあの高い塔から落とされたなんて、身の毛も弥立つ。どう考えても死ぬ高さだった。落ちた衝撃で体の原型が残らない、そんな高さだ。
 それでもこうして生きている不思議に、改めて彼女の能力に驚かされる。
 そして、塔から突き落とすというとんでもない方法ではあるが、それで窮地から救われたのだとキャロルの行動に感謝した。しかし、彼女が妹の仇同然と知れた今、素直に喜べはしなかった。
「ジェイジー……」
 オーディは妹のことを思い出し、辛酸の念を感じた。
『推察するに、それは妹君のお名前ですか?』
 キャロルの腕が聞いてきた。そう言えば四年前に会ったときは、妹の名前までは伝えていなかった。
 先程、塔内でその名を口にした気もするがキャロルが知らないのも当然だろう。
「ああ、妹の名だよ。ジェイ・ジー・クロファリ。俺の二つ下で、生贄に出された時は八歳(やつとし)だった」
 オーディが複雑な顔をして答えたからだろうか、キャロルの腕はしばらく押し黙った。ただ、腕だけの状態でオーディの顔を見られるとも思えなかった。
『……オーディ。妹君のことですが』
「いいよ。君を責めたって、ジェイジーは還って来ない。こんな何もない砂漠で死なしてしまったのは残念だけど……」
 恨みを感じはするが、全てが今更に思えた。もう妹の仇と怒るのすら虚しい。
 助けてやりたかった。本当にそれが心残りだった。
『いえ、生きてらっしゃるかもしれません』
 キャロルの言葉に心臓が跳ね上がる。しかしすぐに
「気休めの慰めならいらないさ。……もし、責任逃れに言っているのなら許さないよ」
 と返した。
 責任逃れで言っているのなら、それは遺族であるオーディの逆鱗に触れる言葉だった。
『そのどちらでもありません。四年前のことを覚えてらっしゃいますか? 私は砂漠にオーディ以外の人の気配はないと言いました。謝罪の言葉もありませんが、私はあのとき砂漠に住む者が人間とは知りませんでした。ですから、生物の気配を感じても『人はいない』言ったのです』
「ま、まさかっ!」
『はい。あの時、私にとっては人以外の生物の気配は感じていました。それが妹君の気配だったのでしょう。確証はありません。しかし、人以外の生物ですら私の領域に入って来ることは珍しいので、恐らくは』
「キャロル! その気配はどうなったんだ?」
 オーディは自分が舞い上がりそうになるのを自覚しつつも、声が高まるのを抑えられなかった。
『私が気配を察知出来る領域の外に出て行きました。少なくとも私はその死を確認していません』
「領域の外に出た? キャロルの言う領域っていうのはどのくらいなんだ?」
『わかりやすく申せば、砂の色が白い所までですね。それより外は、意識的に別の方法を使わないと私は知ることが出来ません』
 砂の白い場所。つまりは『白の砂漠』と呼ばれている地神の聖域の中が文字通りキャロルの領域ということになる。
「じゃあ生きてるのか? 妹は生きてるんだな?」
『生きている保証は出来ません。私の領域外にも砂漠が広がっているのはご存じでしょう? 方角では南西に向かっていました』
「南西?」
 それは妹が北に向かうのではというオーディの読みとは全く異なるものだった。クロセリカの方角とも少し違う、どこに向かおうとしているのか理解に苦しむ情報だった。
 しかし、先祖返りして肌の弱いオーディとは違い、生粋のクロエ族であるジェイジーなら、『白の砂漠』の外でなら早々死ぬことはない。上手く水場に辿り着いたなら、生きている可能性は皆無ではないのだ。
「キャロル、ありがとう……」
 オーディは瞳に涙を溜めていた。
 生きている可能性があると知れただけで充分だった。それだけでオーディの心に力が戻った。
『お礼を言って頂けることは何もしていませんが?』
「はは、そうだね。でも、君を心底恨まなくてよくなったのは嬉しいよ」
 そう言ってオーディは久々の笑顔を見せた。キャロルが右腕だけでなければ微笑み返しているところだろうが、今のキャロルはそれどころではない。
『オーディ、重ね重ね申し訳ありません。あの無頼漢達を退ける方法は何かないでしょうか?』
 無頼漢。聞き返さなくてもそれがケルケ達、ムルトエ軍のことだとわかる。そう、オーディの妹の話よりも今はそちらの方が重要なのである。
『残念ながら、私一人ではどうにも出来そうにありません。私の本体が抵抗していますので、まだ『白の塔』の力を奪われていませんが、このままでは非常に危険です』
 あの『白の塔』がムルトエ軍に奪われる。それはとんでもない事態だ。
 雨風を操り、あの巨大な塔が動く、そんな魔法を一国の軍兵が手に入れるなど、絶対にあってはならないのだ。
「……。対峙したのは僅かな間だったけど、あの将軍達の力。キルビ姉と比べても遜色なかった。多分あの騎士団一人一人も相当な実力者だと思う。それにケルケの魔法……」
 それに比べ、今オーディ達の戦力はたった一人。キャロルが神の眷属の力を発揮出来るのならまだしも、力を封じられた状態ではどうしようもない。
「まず、ケルケをなんとかして、キャロルを解放しないことには……」
『あの、キルビとは人名ですか?』
「え? ああ、俺の義姉さ。クロセリカで戦士団の団長をしていて……、そう、あのムルトエの騎士団を倒す為には最低でも『砂漠の雁』を総動員しないと……」
『クロセリカ?』
 重ね重ね、キャロルから疑問の声が上がる。
 このエルトの地でクロセリカという地名やキルビ・レニーの名を知らぬことに今更ながら戸惑ってしまう。エルトの住人では考えられないことだ。
「クロセリカってのは町の名前さ。俺が住んでいる町さ」
『集落ですか? ここから南にある?』
「それはたぶんクロファリ村のことだろ。クロセリカはもっと南の、ラーヤカンギット山脈の山裾にあるんだ」
『もっと南……。その町の戦士団を喚べば、あの者達を退けることが出来るのですか?』
「喚ぶと言ってもここからじゃ片道二週間以上かかる。そんな時間はないだろう? なんとか俺一人であいつらを倒す方法を考えないと。……でも、キャロル、クロファリ村のことは知ってたんだな、クロエの人には会ったことなさげな話をしていたのに」
『いえ、彼らが向かいましたから』
「彼らが……、向かった? ……まさか、ケルケ達か!」
 そう問うたのに、キャロルの右腕は返事をしなかった。それが逆に肯定ととれた。
「あの騎士団が塔からクロファリ村に向かったんだな? そうなんだな?」
『……はい』
「なぜそれを早く言わない!」
『言えば、オーディはその集落に向かわれると予想しました』
「当たり前だ!」
 オーディは腕に向かって怒鳴り付けていた。そして、有無を言わさず走り出す。
『走って行く気ですか?』
「今ならまだ追いつけるかもしれない」
 オーディは走りながらもキャロルの右腕に答える。しかし、その走り出した方向すら合っているのかわからない。単なる勘で、とにかく急がないと、という気だけが逸っていた。
『彼らは転送を使いました。既に間に合いません』
「あいつらがまともな理由で村に行くわけがないだろ! 村が襲われるんだ」
『わかっています。しかし、現状でオーディが行っても仕方がありません』
「わかってるさ! でも、だからこそ行かないと。キャロル、君の力で何とかならないのか?」
 それは無茶苦茶な要求だとはわかっていた。キャロルが力を封じられているから、こんな事態になっているのに勝手な言い草だと思った。
 それなのに返ってきた言葉は意外と肯定的なものだった。
『わかりました。その代わり、お願いがあります』
「お願い?」
 オーディは何やら嫌な予感に囚われながらも聞き返さずにはいられなかった。



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