*

 天空に流れる幾多の星々。
 どこを見ても同じ星はなく、まるで海で波がうねるが如く、常に輝く星が流動を続ける。
 それを見上げているうちに、気が付けば足先には白き砂が降りかかる。
 さらさらに乾いた砂は泳ぐように風に乗り、体にまとわりついていく。
 振り返れば今まで自身が歩いて来た場所に足跡すら残っていない。
 流れる砂が刹那にして歩んだ足跡(そくせき)もかき消し新たな風紋を刻んでいく。

 ここはどこだ? そう問いたくなる。
 どこを見ても白き砂。一体どちらから歩んで来たのかさえもわからない。
 手が震える。広大な砂漠のはずなのに閉塞感に満たされた世界。
 どちらを向いても夜の闇に白い砂丘が浮かび上がるだけ。
 そんな神の聖地で人の身に出来ることはない。このまま砂に晒され続け、自らも砂へと風化していく、そんな幻に囚われる。
「くそ! くそ! そくっ!」
 一歩進むごとにそう吐き捨てなければ、砂漠に飲み込まれ、肉体まで朽ち果てそうだった。
 しかし口を開く度、喉の渇きが痛みを訴える。
 なにより、砂漠の夜の寒気が体と思考を止めようと刺すような凍えを届けにくる。ここは本当にあの灼熱の砂漠なのだろうか。
 話としてこの『白の砂漠』の恐ろしさを聞かされていても、高が砂漠と甘く見ていた自分に気付く。
 自身の間違い、自身の弱さを突き付けられて、己を否定される恐怖を知る。
 本当にこの砂漠から帰れるのか。その疑問が心の中で渦巻き始めてしまう。
 今すぐにでも踵(きびす)を返して逃げ出したい。
 逃げて逃げて逃げて、人の温かさのある場所まで、惨めに生き延びたい。
 誰かに後ろ指をさされてもいい。嘲笑われてもいい。
 生きて帰れるのなら、どんな罵詈雑言を浴びても、それが逃げだったとしても、こんな何もない、人の温もりも、家の暖かさも、自然の優しさもない、こんな場所で果てるなんて……。

「コルッシュさん。大丈夫ですか?」
 唯一の救いといえるのは、共に歩む仲間がいることだけだろう。
「コルッシュさん?」
「おまん。本当に四年前、一人でこんな場所に来たがやか?」
「ええ」
 オーディは苦笑いで応えた。
 笑えてくる。今、自分が味わっている恐怖。いや、連れが二人いる今とは違う。たった一人の孤独が何倍にも増幅しただろう恐怖に、こんな子供が耐え抜いたというのだ。
 「自分に似たガキ」と言ったのは、なんて烏滸(おこ)がましいことだったのかとコルッシュは自笑する。
 ウーパに乗っていたとはいえ、クロファリ村まで二週間、砂漠を旅して来たのだ。コルッシュは『白の砂漠』にだって耐える自信があった。
 それがたった三日間、『白の砂漠』を歩いただけで肉体も精神も困憊(こんぱい)していた。
 昼の灼熱。夜の極寒。白き砂の海が方向を見失なせ、砂地の大地が平衡感覚さえも奪い取る。乾いた風が砂丘を動かしながら迫ってくる。
 地獄。その言葉が相応しい。
 この地上に造られた死の檻。人に裁きを下す神の聖域。それならば地神ディフェスではなく、裁神ピアスか冥神ヘアレントの領分であろう。
 それとも神は皆、人を苦しめる為に存在するのであろうか。
「ケルケさん、休みましょう」
 コルッシュの疲労を読みとってオーディが気を利かしたのであろう、休憩の提案をした。その言葉には、確かにそそられる魅力があった。
「俺っちはまだ大丈夫じゃきに。まだまだ歩けるけん」
 まだ夜明けには早かった。夜行を選んだのだから、夜の内に進まなければどうにもならない。
 夜まで休んでは、本当に砂漠の真ん中に取り残されているようで気が滅入ってしまう。
 この砂漠で気持ちが折れたら、それこそお終いだった。
 コルッシュの思いとは裏腹に、オーディの提案を受け入れたらしいケルケも足を止める。
 そうして見上げた空は、澄み渡った濃紺と流れる星々が入り交じり、今にも手が届きそうな錯覚に陥る。
「オーディ君。君の感覚では『白の塔』は近付いているんですか?」
「そうですね。あの時はふらふらでしたから……。でも、なんとなく遠くない気がします。すいません。こんなことしか言えなくて……」
「いえいえ。なるほど、それなりに近付いていると」
 オーディは腰に付けていた磁針を取り出した。四角錐に切り出された磁針石を垂らした糸がぴんと張り詰め、次第に振れていく。
 それは四年前と同じく奇妙な振れ方。一所を指すようで指さないもどかしい動き。
 止まったかと思えば、再び振れることもある。そんな磁針の挙動は『白の砂漠』以外で見たことがない。
 磁針の動き、指し示す方位。それをじっと見ていたオーディは夜の地平線に目を移す。
「あの時と状況はそっくりなんですけどね」
 四年前のことははっきりと覚えている。この四年間忘れられずにいたオーディの前に、今再びあの時の状況が再現されようとしている。しかし、肝心の『白の塔』だけが見当たらない。
 しばらく思案した様子だったケルケが、外套(がいとう)の袖を捲り右腕の腕輪を宙にかざした。それは飾り気のない金属環で、一部に珪石のような物が填め込まれていた。
「近いのなら、私にもわかるかもしれません」
 そう言うと、ケルケは腕輪を填めた手を夜天の空に向け、じっと何かを待つようだった。
 その腕輪が仄かに赤い光をまとったことにオーディは驚いた。まるで輝薔薇のように、それ自体が光りを放っている。
「何をしてるんですか?」
「まあ、なんです。星詠み……、みたいなものです」
 そうケルケは言ったが、そんな星詠みの法をオーディは知らない。第一、ケルケに星が詠めるなんて聞いてなかった。
 暫(しば)し、赤く光る腕輪を夜空のあちこちに向けたかと思えば、頷くように腕輪を袖の中に戻した。
「南か……」
「南? 『白の塔』が南に? どうしてそんなことがわかるんですか?」
「オーディ君。私も何の勝算もなく、こんな砂漠に来たとお思いですか? 私もそれなりに準備をして来たのです。これもその一つ」
 そう言って、服の上から腕輪を叩いて見せた。
「そげんしても南ちゅうのは、行き過ぎたってことやきに?」
 無益な労力を費やしたのかと、コルッシュは意気消沈気味だ。クロファリの村から北上して来たのだから。南は逆方向だ。
「行き過ぎたというよりは……。もしかすると、四年前のオーディ君、そして今回の我々も、砂漠を丸く歩いていたのかも知れません」
 ケルケの言葉に当のオーディが一番驚いた。あのとき、ずっと北を目指して歩いたつもりだった。
 その先に妹がいると信じて命を投げ打って歩き続けたのだ。それなのに砂漠の中をぐるりと回っていたとなれば、それは全くの無駄に等しい。
「おそらく、この砂漠の中では磁針が北を指さないのでしょう。私も少しおかしいと思っていたんですよ。オーディ君の記憶通りに行ってもらうのが一番確実だと思い、それに従っていましたが、この砂漠に入ってから方位のずれが大き過ぎました」
「方位? ケルケさんが磁針を使っているところを見たことないですが?」
「オーディ君。君は知らないでしょうが、方位を知るに、磁針以外の手段もあるんですよ。それで、これは私の予想ですが、我々は今まで大きく弧を描いて歩いて来たんだと思います。砂漠の中心を避けるように。これも想像の域を出ませんが、『白の砂漠』というのは『白の塔』を中心とした半径が徒歩二日から三日程度の円状をしているのではないでしょうか」
「じゃけん、オーディだって太陽や月でも方角を確認しちょるじゃろ」
 コルッシュの言葉にオーディは大きく頷く。磁針が奇妙な振れ方をしていたのだ、より慎重に方角を見てきたつもりだ。
「ですが常に確認しているわけではありません。一歩動けば、目印になるものが何もないこの砂漠です。空を行く太陽や月を見ていても、歩くうちに向かう方向がずれて、気付かなかったということでしょう」
「それは信じていいのか?」
 どうやって正確な方位を見定めたのか。ケルケは明言しなかった。
 恐らく、赤く光る腕輪に何か秘密があるのだろうが、本当に『白の塔』が南にあるのかも信じていいのかわからない。
 もし、ケルケの主張が誤りであったとき、一行は砂漠で果てることになるだろう。
 極限の環境下である砂漠では、一度の判断の誤りが即、死に繋がる。
「ええ、君の四年前の記憶を考慮に入れた上での考察でもありますし」
 オーディは目を伏せ、ぐっと何かに耐える様子だった。
 四年前の自分が全く見当違いをしていたと言われたようなものだ。過去の過ち、それを今更に突き付けられたのだ。悔しくないはずがない。
 しかし、それは仕方がないのかもしれない。四年前に妹を見付けられなかったのは事実だ。その罰は受けてしかるべきだとオーディは思う。
 しかしそんな自虐的な必罰を考えるよりも、ケルケに聞かなければならないことがあった。
「ケルケさん。あんたは俺みたいなのが知らないことも知ってる。俺なんかの案内がなくたって『白の塔』を見付けることが出来たんじゃないのか?」
「それは買いかぶり過ぎです。迷わずクロファリの村に着けたのも、この『白の砂漠』まで生きて来れたのも君のお陰です。そうでしょうコルッシュ?」
 弓使いの傭兵が首肯したところで、オーディには到底納得の出来るものではない。
「……ケルケさん、そろそろ教えて欲しい。あんたは神がいないと証明すると言った。あんたはどうやってそれを証明するっていうんだ。世界に封(ほう)じられ、世界とともある神。皆、神を信じて生きている。人には会うことも叶わぬと言われている神をどうしていないと言い切れる」
 食い入るような目線でオーディはケルケを見据えていた。
 神はいないと言い出したケルケをオーディは信用していなかった。
 確かに、妹を地神の生贄に出され、神に対して恨みの感情を持っていたとしても、神の存在を否定することとそれとは、また別の問題であった。
「もしや、そんなことをクロセリカの町から聞けずに溜め込んでいたんですか」
「そんなことっって!」
「おやおや、図星をつかれて頭に血が上るとは、君もまだまだですね」
 オーディがやっとのことで口にした質問を、ケルケは軽佻浮薄の口調ではぐらかした。
「そうですね。それは神に会ってからでいいのではないですか?」
 神はいないと言っているのに、神に会うというケルケ。
 何やら意味ありげの笑みを浮かべ、彼は楽しそうな様子だった。
 クロセリカの町で会った時から、いつもにこやかな表情を崩さない人物であったが、こんな人を馬鹿にした笑い方をする人だっただろうかと、オーディはケルケの本性を見た気がした。
 ただ、ケルケが発した言葉にオーディは心当たりがあった。
「神に会う……。やはり、彼女がディフェスなのか……」
 オーディの漏らした言葉にケルケの眼光が炯々(けいけい)とする。
「やはりとは私の台詞ですよ。君は四年前に『白の塔』を見たと言っていましたが、実際はそれだけではなかったのですね。『白の塔』に入ったのですか?」
 そう、オーディはケルケ達に『白の塔』を見たとしか言っていなかった。
 それどころか、あの四年前の体験の詳細は、義姉のキルビ・レニーにすら話したことはない。あの夜の不可思議な体験は、話したとしても信じてもらえない。そんな気がしたからだ。
「いや……。俺は見ただけだよ」
 そう答えたオーディの顔をしばらく品定めするように見ていたケルケだが、いつの間にかいつもの柔和な表情に戻っていた。
「そうですか。それは僥倖(ぎょうこう)でしたね。アレには関わらない方が身の為です」
「そういうケルケさんは関わるんだよな、アレに」
 ああいえばこういう。まるで子供の喧嘩のような自身のやりとにり、オーディは苦い顔をする。
 ケルケが言う『アレ』とは何のことなのか。それがオーディが四年前に見たものと同じものなのかもわからない。しかし、ケルケは何かを知っているだろうことは確かだった。
「ええ、それが使命ですからね」
 そう応えたケルケにオーディは三白眼を送る。しかし、それも暖簾(のれん)に腕押し。ケルケは笑みを浮かべたままオーディの冷たい視線を真っ向から受けて見せた。
 根負けしたのはオーディの方で、話はそれまでとケルケが指した南へと勝手に歩き出す。

 だが、その歩みも一刻と保たなかった。もはや体力の限界が近付いていた。
 最初に足が止まったのは、やはり弓使いのコルッシュ・ムジカだった。
 行進に遅れがちだったコルッシュの息使いが聞こえないことに気付いたオーディは焦りまじりに振り返る。
「コルッシュさん!」
 遙か後方で白き砂漠に立ち尽くすコルッシュ。オーディの呼びかけにもコルッシュは肩で息をするだけで反応がない。
 オーディとケルケが駆け付ける頃には、コルッシュは両の膝と手を砂漠の砂地に埋めていた。
 その表情は目が虚ろで意識が薄らいでいた。砂漠の夜は気温が上がらないとはいっても、その風は乾いたもの。水を摂らねば渇きに侵される。恐らくコルッシュも渇きにやられたと見て取れた。
 傭兵のコルッシュが学者のケルケより先に体力が尽きたと聞けば、傭兵仲間から揶揄されることだろう。
 しかしケルケにはムルトエ人の強靱な肉体がある。ノールダム人であるらしいコルッシュがそれに劣るといっても恥じることではない。
「コルッシュさん、水を! ……なっ」
 水を飲まそうとコルッシュの水袋を手に取ったオーディが驚きの声を上げる。水が全く入っていなかったのだ。
「……水は、とっくになくなっちょる」
 コルッシュが掠れた声を出す。各々が水袋を持っていた為、オーディはコルッシュが既に水を飲み干していることに気付かなかった。
「オーディ君……。実は私も、もう残り少ないのです」
 自らの水袋を振ってみせるケルケ。ちゃぷちゃぷと鳴るその水音は、明らかに軽い。
「どうして、そんな……。帰りの分まで見積もって持って来たのに……」
「オーディ君。我々は砂漠の民ではないのです。クロエ族や、砂漠に慣れたエルトの者ならともかく、我々は渇きに弱い。これまで騙し騙しやってきましたが、この『白の砂漠』は少しばかり度が過ぎました」
「なら、もっと早く言ってくれないと! こんな砂漠の真ん中で水がなければ死んでしまうんですよ。それぐらいわかっているでしょ!」
 オーディの叱咤にケルケは何も応えなかった。
 とにもかくにも、オーディは自らの水袋をコルッシュに差し出して無理矢理に水を飲ませた。そしてその水袋をそのままケルケに手渡す。
「あなたも飲んでください」
「私はまだありますよ、少ないですが。それに我々が飲めばオーディ君の分がなくなります」
「いいから飲んで!」
 オーディは純粋に怒っていた。水が既になくなっていたことを言わなかった二人に。それに気付かなかった案内役の自分に。
 それから無言でオーディ天幕を張り始めた。
 コルッシュの状態を考えると、今は歩けはしない。とにかく休んで回復を計る必要があった。
 夜が明け、太陽が燦々とした灼熱を撒き散らすのをオーディ達は必死に耐えた。
 気温は不快に上がっていくが、直ぐに水を飲ませたのがよかったのであろう、コルッシュも命に別状はないようだ。
 この昼を乗り切ればまた夜が来る。
 残っている水で三人が村まで帰れるだろうか。オーディは無理だとわかっている計算を脳裏に巡らす。
 しかし、どんなに考えても、残り少ない水で三人が無事にクロファリの村まで辿り着くことは出来ない。
 一人なら、オーディ一人ならそれは可能だろう。
 四年前とは違い、妹を命を賭して探しているわけではない。同じ探し物でも、『白の塔』など、今すぐ見付ける必要はないのだ。生きていれば何度でも探しに来られる。
 だが、オーディが一人逃げ帰ってどうなるというのだ。案内役のオーディ一人がおめおめと逃げ帰って来たなどと知れば、『砂漠の雁』団長の義姉が許さないだろう。
 そんなことがあれば『砂漠の雁』の沽券(こけん)に関わる。
 こんな状況になるまで、オーディに言わなかった二人を責めたくなる気持ちはある。
 しかし、そういう危険も予測し回避するのが案内役であるオーディの役目でもあるのだ。責任を人に全て押しつけるわけにはいかない。
 なんとか三人が無事に帰り着く方法。
 どんなに考えても、オーディはたった一つしか思い付かなかった。
 そして日が落ちる。
 また一日、生を繋いだ。
 その喜びを神に祈り上げる。恨んでいるはずの地神ディフェスにオーディは祈りを捧げていた。
 それが生き残るたった一つの道筋だと信じて。


  *

 もうあれから幾日歩いただろうか。
 実際にはコルッシュが渇きに倒れてから二日しか経っていない。
 たった二日歩いただけだ。それなのにその二日が長かった。
 幾日も歩いたと思えるほどに疲弊を感じる。
 残り少ない水を三人で分け合いながら、彼らは何とか歩いていた。
 砂漠で立ち止まるのは死と同じ。その思いが三人の重い足を何とか動かしていたのだ。
 そうして歩いてみても、見えるのは闇に浮かぶ白き砂丘と、幾重にも星が降る地平線。いくら進んでも変わらぬ砂漠。それに絶望するわけにはいかない。それこそ死と同じだ。
 オーディ達はもはや無心となって足を進めるのみ。

 オーディはふと夜天の空を見上げた。
 空に赤月が望む。それは四年前と同じ色をしていた。
 吸い込まれそうな空を見て、オーディの口元が緩む。
 懐かしいと思った。
 帰って来たのだと真に感じた。
 同じエルトでも、『白の砂漠』で見上げる空は特別な色をしている。
 振り返ると、ケルケとコルッシュも空を見上げていた。
 それが最後だった。それを最後に三人は足を止めてしまった。
 誰も何も言わずに、その場に座り込んでしまう。
 本当の限界を三人は覚えたのだ。
 自らの水の殆どを二人に分け与えたオーディも、辛苦の渇きに襲われていた。
 もう一歩も動けない。
 三人が三人とも空を仰いで静かな気持ちになっていた。
 水がないことに気付くのが遅かった。
 引き返すのが遅かった。
 三人では帰れぬのはわかっていたのに、それでも二人に水を分けてしまった。
 全てが間違った判断だった。
 それでもオーディに後悔はない。この砂漠で死ぬのなら、それでもいい。
 四年前に生き残ったのが間違いだったのだ。だから神はオーディを再び喚んだに違いない。オーディが死ぬはずだったこの『白の砂漠』へと。

 そして東の空が明ける。
 朝日が昇る白き砂漠。辺り一面が柔らかい光を反射して世界が黒から白へと脱げ変わる。『白の砂漠』で唯一、太陽の優しい時間が始まろうとしていた。
 東の空に顔を出した光の帯が全てを包む。地平線には僅かな雲の端(は)。その雲に巻き付くように白き陰が立ち上がる。
 始めに気付いたのはコルッシュだった。砂丘の斜面に大の字に寝る彼がその陰を見付けた。
「塔……。塔じゃけん!」
 それまで困憊が嘘のようにコルッシュが体を起こす。
「『白の塔』……。本当に……」
 オーディが呟いた。
 信じられない。四年前見た影絵と全く同じ。あの時は灼熱の陽炎に揺れて消えたそれが、朝日の光を受けて、以前よりもはっきりと見えていた。
 四年前に見たものは幻じゃなかった。それがわかっただけでオーディは胸が一杯になる。
 四年前たった一度だけ見た幻視。死が迫り、縋る思いで村に伝わる神話で知っていた神の聖地の蜃気楼を見たのではないか。いつもそう疑っていた。
 それが本物だと胸を張れるわけがない。それがこうして、またオーディの前に現れてくれた。
「東……。私の読みより少しずれましたね」
「じゃけえ、まだ随分遠いぜよ」
 三人の目には、はっきりと白い塔が写っていた。もう、誰も幻とは言わない。目的地が見付かったことで、コルッシュ達にも気力が戻っていた。
「どうします? 恐らくあと半日は歩かないと着かないでしょう」
「半日? 見えちょるのに、そなんかかるきに? もうそんなに歩けんよ」
「見てください。塔の先端に雲がかかっているでしょ? あの塔はかなり背が高いようですね。今、地平線の上に顔を出している部分は塔の上部に過ぎないのでしょう」
「そなんに大きいとは……」
 コルッシュは地平線から僅かに顔を出した塔に度肝を抜かれた。空にある雲に届く塔とは、一体どれほどの高さがあるのだろう。まさに天を貫く塔という言葉が思い浮かぶ。
 立ち尽くして地平線の彼方にある『白の塔』だけを見つめるオーディ。
 妹が生贄として出されたこの砂漠。そして生贄を求めた地神が在す白き塔。それを前にしても、心には靄(もや)がかかったように、何の答えも出ない。
 恨めばいいのか、怒ればいいのか。一体どうすればいいのだろう。
 オーディの心中は悶々としたまま、静かに自問を繰り返す。
 朝日が完全に昇り、陽炎が塔の姿と揺らめかす。
 その姿、懐かしいとさえ思う。それと同時に、そそまま消えてくれればいいのに。そんな思いが心のどこかにあるのにも気付く。
 四年間、妹のことを忘れたことはない。しかし白の砂漠から生き延びて、エルト砂漠で義姉に拾われて以降、妹を探したこともない。
 諦めたというには後ろめたい。それはもう、悲しいことは考えたくないという逃避だった。
 だから、義姉に戦技を教わり戦いに身を置くことで過去を忘れようとしていた。
 けれども忘れられるはずがない。
 誰か、助けて欲しい。そう言いたかった。
 しかし、本当に助けるべきだったのは生贄に出された妹だ。妹を守れなかった兄が泣き言を吐けるわけがない。
 オーディの脳裏にはこの四年間のことが走馬燈のように回る。
 一体何をしてきたのだろう。何も成し得えたことはない。人を殺す技を手に入れ、人を殺さぬように生きてきただけだ。
 そんな空回りの生き方しか出来ない。それがクロファリの姓を捨てたオーディの真実だ。
 夜明けの砂漠。『白の塔』の陰を含む光が伸びる。
 闇が晴れた空は、夜の冷気を天へと急激に吸い込んでいく。

「ごきげんよう。そしてお久しぶりです」
 綺麗に透き通った声だった。
 待ちわびた声。再会を祝う鐘。幸いを運ぶ歌声。
 『白の塔』に目を奪われていた彼らには、その声の主が突然、頭上に現れたように感じられた。オーディ達の目前の宙に少女が浮いていた。
 天より舞い降りた白き少女に、連れの二人は声すら上げられずに呆けている。
 いや、呆けているのはオーディも同じ、四年前と何ら変わらぬ姿の少女に四年ぶりに見呆ける。

「そろそろ来る頃だと思ったよ。キャロル」
  



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