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 世界の天井とも言われるラーヤカンギット山脈とラカン山脈。幾多の峻嶺が連なり、世界で最も険しいとされる山岳高地帯である。
 あまりの高峰に越えることなど土着の者でも考えつかぬほど。
 越えられぬのは人ばかりではない。天にあるはずの雨雲すら山脈を越えられず、山を越えた風には一滴の水も含んでいない。
 その二つの山脈によってエルトの地が他邦(たほう)から隔てられているのは、地神ディフェスの意思だといわれている。

 七つ神が一柱、地神ディフェスは大地の守神である。
 世界中の大地が溜め込んだ『災い』を一手に引き受け、その集めた『災い』が外に漏れ出さないようにエルトの地に閉じ込めた。
 それが広大なエルトの地が不毛の荒野と成り果てた理由であるといわれている。
 つまり、このエルト以外の地で人々が実りを口にし、生を謳歌出来るのは地神のお陰なのである。
 地神の結界とまでいわれるラーヤカンギット山脈とラカン山脈は、元々一つ大山嶺であったと伝えられている。
 しかし、今ではその二つの山脈は確かに別のもの。二つの山脈を東西に分けるように深い谷があるのだ。
 そこは剥き出しの岩山ばかりが集まる荒れた土地。天の突く山脈を二つに割るコーベッカ峡谷。地神の結界に空いた穴と噂される深谷である。
 その昔、死の谷とさえ呼ばれた谷は、大陸を背骨のように縦断する高山帯を真っ二つに隔て、ラーヤカンギットとラカンという二つの名を与えていた。

 左右を切り立った尾根で挟まれたコーベッカ峡谷には風が集まる。
 特に夏先には海から吹き付ける風が狭い谷に集まり、人でさえ吹き飛ばしそうな強風が幾日も続く時がある。
 その風の所為で谷付近は高木が育たず岩肌が剥き出しになっている。それこそが死の谷と呼ばれる由縁だった。
 そんなコーベッカ峡谷はエルト地方への入り口でもある。山脈で隔てられたエルトに南方から入るにはこの谷を通るしかない。

 荒寥(こうりょう)なる大地とはこのことをいうのだろう。エルトと呼ばれる地方は山越えの枯れた風が吹き、岩と砂にまみれた乾いた大地だった。
 自ずとエルトに住み着く者は少なく、近隣のサーディーン地方やシグ地方といった比較的住みよい土地に人は集まった。
 そうして他方では国同士の戦乱が絶えぬ中、エルト地方に至っては国という基盤も存在せぬほどに寂れた土地となっていた。
 だからといってエルトに住む者が安寧に暮らしているわけではない。
 そこは地神によって災厄が集められた土地。
 荒れた大地と乾燥した気候が植物の生育を阻害するのに加え、軍兵が討滅するはずの魔獣が野放しになる未開地となれば、人が野を闊歩するのを許されるはずがない。
 それでもエルトは神に選ばれた土地。穢れた地に付き物の瘴気が満ちていないのはせめてもの救いだろう。

 そんなエルトの地に、近年急速な変化が起こっていた。
 南方に位置していたイルルガ王国の滅亡。
 覇道を目指すアレクドニア帝国の西征により、エルト周辺の勢力図は劇的な変化を見せていた。
 国を追われた人々は国無き地エルトに流れ込み、先住民との衝突、和解、軋轢、共存といった諸々の摩擦を繰り返し、新たなエルトの民としての生活を始めている。
 エルトの中でもコーベッカ峡谷に最も近いクロセリカの町は、そんな難民を数多く受け入れた。
 その結果、急激に人口が膨れあがったクロセリカはエルト地方最大の町となっていた。

「あ〜、やっと終わった」
 商隊の警護が終わった解放感から、レイモン・デルアンは大きく伸びをした。
「レイモン、お前も手伝え」
 その後ろから、手に大荷物を抱えたニータ・ガテリアが声をかける。
「荷下ろしなんて、別にいいんでねぇの? 依頼は警護なんだしよ」
 商隊は無事にクロセリカの荷下ろし場に着き、警護対象であった商人達は、クロセリカ市場の元締めの所に挨拶に行っていた。
 今は、商隊の手代(てだい)達が荷を解いて、市場の脇に立てられた倉庫に運び出している。
 戦士団『砂漠の雁』から共に警護に就いていたニータとオーディは、それを手伝って荷を運んでいた。
「荷が全部無事なのを確認して、私達の仕事は終わるんだ、って団長がいつも言ってるだろ?」
 全く似ていない団長の口真似をニータがする。
 丁度、横を通り過ぎようとしていたオーディは思わず苦笑した。
「そっちの荷台は、あと箱九つあるから」
 オーディの言葉に、レイモンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「まったくよ。団長いないときぐれぇ、ゆっくりさせて欲しいもんだ。あの団長は人使いが荒ぇんだからよ」
 愚痴が漏れるレイモンだったが、足は自分達が守って来た幌車に向かっていた。
 もちろん荷の搬入はレイモン達の本来の仕事ではないので、手伝わないからといって商人達から苦情が出るわけでもない。
 それでもつい手伝ってしまうのは、ここがエルトという本来、人が住むには過酷な土地だからだろう。互いに助け合わなければ、生きては行けない厳しい環境が、人と人の繋がりを強めているのだ。
 一商隊の荷下ろしとなると、なかなかの重労働で、終わった頃には日が傾き始めていた。
「もういいよな? もう帰っていいよな?」
 結局、一番荷を多く運んだレイモンが、そわそわした様子で言う。それを見ていた商人の手代達からも笑いが漏れた。
「レイモン。いい歳して子供じゃあるまいし、何だその言い草は。それだからいつも団長にどやされるんだ」
 荷下ろしを嫌がっていたレイモンだが、彼に疲れた様子はない。
 それは他の二人も同様で、戦士というものは根本的に鍛え方が違うのだろう。
 荷下ろしで疲れ切っている商人の手代達は、三人に礼の言うのが精一杯なほどへばっていた。

 ようやく晴れて帰途に着く三人。
 このクロセリカの町は戦士団『砂漠の雁』の本部詰所がある彼らの地元であった。無論、彼らの住居もこの町にある。
 ラーヤカンギット山脈の山裾に作られたクロセリカの町は、緩やかな斜面に沿って整えられた町並みが広がっていた。
 外敵から町を守る為に掘られた水堀と、そこから町中に敷かれた細い水路が、クロセリカの町を包む夕日を反射して、町を更に深い赤に染め上げていた。
 アーリッシュ川から引かれた地下水道のお陰で、乾燥地帯にあってクロセリカの町は比較的豊富な水量を確保出来たことが、町が栄えた理由でもある。

「しかし、今回はほんと楽な仕事だったなぁ」
 レイモンが大きな独り言を言う。三人の行く町並みは商業地区から居住区に変わり始め、同じく帰宅途中であろう人通りが多くなっていた。
「イルルガまでの往復だからな。これが楽じゃなければ、俺達の仕事はお手上げだ」
 元々楽であることを見越して、今回の仕事はたった三人で受け持った。
 商隊警護で三人といえば、最小単位といえる。野盗に襲われてなお、楽だと言い切るのも、彼らが優秀な戦士である証拠のようなものだ。
「ニータ。今はイルルガじゃなくて、サイトラーンだって」
 オーディの言葉に一同は黙り込んだ。
 イルルガ王国の首都であった同名のイルルガという街は、アレクドニア帝国の占領によって、その名を変えざるを得なかった。
 東国であったアレクドニアの台頭が近年のエルト周辺に混乱をもたらしている。
 その混乱こそ、戦士団『砂漠の雁』に存在意義を与えたと言っても過言ではない。
 そして何よりニータがイルルガという名を口に出してしまったのは、彼とレイモンが旧イルルガ王国出身だったからである。
 失った母国を思い出してか、一同の暗い雰囲気が漂う。それに息が詰まったのか、レイモンが頭を掻きむしった。
「ちょっと寄ってかねぇか?」
 レイモンが首で指した先には一件の酒場があった。
「おいおい。詰所にも戻らず飲みに行ったら本当に団長にどやされるぞ」
「ニータも固いこと言うなって、この時間なら団長も家に帰ってるって」
「だからこそ、俺は帰った方が……」
 オーディ口籠もるように言うが、レイモンはオーディの肩を叩いて頬を緩ませた。
「オーディも来いよ。簡単な仕事だったが、帰還祝いにパァっと行こうぜ」
 有無を言わさず、レイモンは二人の肩に手を回して酒場に引きずり込んだ。何やらオーディがささやかな抵抗を見せたようだが、それが無駄に終わることもわかりきっていた。
 そして夜が更け、クロセリカの町の灯りも落ちる。そんな中でも、その酒場は煌々と光を宿していた。
 そこは『ジェリッサの堀』という飲み屋だった。純粋に飲み食いするというより、町の荒くれが集まって酒を酌み交わす社交場である。
 飲みに来る者は皆顔見知りで、一日の疲れを忘れる為に毎日騒ぎ立てるのが常だった。
 レイモンに無理矢理に連れ込まれたとはいえ、店に入ったものは仕方がないと、ニータとオーディもクロセリカ帰還を祝って祝杯をあげていた、はずなのだが、酒が入れば口が滑るというものでレイモンとオーディは口論となっていた。争いの種はオーディの精神的甘さだった。

「あん時だって、お前が死んでたら俺達だって危ねぇんだよ! それぐらいわかってんだろ!」
 レイモンの上げる怒声は店中に響き渡る。
 いつでも相手を殺さないように気遣うオーディの戦い方は、見ている側には不満が募るものだった。それを酒に任せて吐き散らす。
「わかってる! だから死なない!」
 普段大人しいオーディもレイモンに負けず劣らず声を張り上げていた。
「何が死なねぇだ! ちょっと年の割に腕が立つからっていい気になってんじゃねぇ! 相手殺す気がねぇなんて甘い寝言がいつまでも通じると思うな! 今までは運がいいだけだろが!」
「それぐらいわかってる! やるときはやるって言ってるだろ!」
「普段やってねぇ奴が土壇場で何が出来る? それが甘ぇって言ってんだよ!」
 二人の主張は終始すれ違い。
 それは何も今日に始まったことではない。以前から二人は事ある毎にその論議を繰り返している。そんな二人の口論を、ニータは酒の肴と静かに見守っていた。
 ニータの意見はレイモンと同じであった。オーディの考えは甘い。敵を殺さないで事が済むなどというのは絵空事で、そんな愚かな行為はいつか決定的な危険を招く。
 それはオーディ自身だけでなく、ニータ達仲間全員を含めた危機になるだろう。そうは感じていてもニータはレイモンと共にオーディを責めようとは思わなかった。
 二人が言った所でオーディの意思は変えられないことをこれまでの経験で知っている。
 そして何よりオーディの意思は夢の如く眩しい理想で、ニータもその昔、囚われた幻想であった。
 ニータは心のどこかでオーディがその理想を貫き、そして生き延びることを願っている。
 だからニータは二人の喧嘩に口出ししなかった。それ以前に酒の席で何を言っても意味はないと知っていた。

 二人の言い争いを聞きつけてか、三人の座る木卓の周りには『砂漠の雁』の仲間が集まっていた。
 彼らも仕事終わりの一杯を楽しみに来ていた。普段、戦士団として有能な彼らも酒が入り、完全に単なる酔っぱらいの野次馬で、二人の喧嘩を面白おかしくはやし立てていた。
 酒が入るとレイモンがオーディと口論するのは『砂漠の雁』の名物のようなもの。
 誰からとなく「どちらが先に拳をぶち込むか」という賭けが始っていた。
 こういった酒場では、本来なら野次馬達もどちかが喧嘩負けして床にひれ伏すまでやれと、そういった粗暴な野次を飛ばして賭け合いが行われるのだが、オーディとレイモンの二人に関しては、殴り合いの喧嘩となると、どちらが勝つかは自ずと決まってしまう。それを皆が知っているので賭けが成立しないのだ。
 そこで、先にどちらが一撃当てるかだけを賭けにする。酒も入り、血気盛んな荒くれ達の間で、そんな生やさしい賭け事では物足りないと思われるかもしれないが、これがなかなか予想が当たらないと『ジェリッサの堀』の名物と言われるまでになっていた。

 この賭け事の予想が当たらない主な原因は、オーディとレイモンの性格と戦技が面白い具合に噛み合っている所為だ。
 頭に血が上りやすいレイモンの拳を、オーディはことごとく避けてしまう。
 逆に自らから先に手を出すことはないが、やられればやり返す負けず嫌いのオーディの反撃は、鍛え抜かれたレイモンの両の腕(かいな)にはじき返される。
 戦場に身を置く二人だからこそ、お互いに一撃ですら入れることが難しい。
 むしろ、実力ある傭兵同士の喧嘩となれば、最初の一撃がどのように入るかで、全てが決まると言っても過言ではない。
 だからこそ、酒場中を巻き込んで、さながら拳闘の試合のような熱気が上がるのだ。

 しかしながら実を言うと、この賭け事で最も多い結末は「横からニータが二人とも問答無用で殴り倒してその場を収める」なのであった。
 ただ、当のニータは、今夜は二人に徹底的にやらせるのもいいか、と心密かに考えていた。
 それを知らずに次々とニータの介入に賭けていく仲間達を、彼は気味よく眺めていた。

「たまには年上の言うこと聞きやがれ!」
「年が上ってだけで何が偉い、ジジイ!」
「俺はまだ三十だ!ジジイじゃねぇ」
 端から見れば、やはり仲のいい者同士の言い争い。ニータも苦笑を隠さない。
 この喧嘩は気心の知れた者同士の馴れ合いというものだろう。
 それを知って集まってきた野次馬も遠慮無しにはやし立てている。
 勢いよくレイモンが立ち上がる。モーリアの木で出来た丸椅子が乾いた音を立てて床に倒れた。
「舐めた口聞くな!」
 レイモンの大声が店の外まで広がる。遂に喧嘩も佳境。賭の決着がつくと店内が一様に息を呑む。
 大きく振り上げたレイモンの拳。さて今度は当たるか当たらないか。それともオーディがいなして反撃をするのか。
 瞬間、熱く騒がしかった酒場が静まり返った。

「ケンカはいけませんよ」
 とても静かで落ち着いた声だった。白熱の空気が充満した酒場に、凍える冷水を垂らしたような異質な声が充満していく、知らずとその場にいた者全員がその声に引き込まれた。
 そこには一人の大男がいた。
 大の大人と比べても頭三つ分は突き出た巨大な身の丈。身長の割には細いひょろりとした体型が、ゆったりと体を包む濃紺の外套(がいとう)と鍔(つば)のない帽子とで相まって、高温乾燥のエルトの地には似合わないものだった。明らかに余所者とわかる服装だ。
 その長身から生えたこれまた長々しい腕で、オーディに殴りかかろうとしていたレイモンの手首を背後から鷲掴みにしていた。
「放せよ、てめぇ」
 レイモンは殺しを利かせた声を出す。振り上げた拳を止められたことよりも、いくら酒が入ったとはいえ、戦士である身で後ろをむざむざ取られた自分自身への怒りが声に籠もっていた。
 よく見ればレイモンの腕が筋肉を張り詰めて震えている。二の腕にいたっては筋肉が限界まで膨らみ、血管が隆起していた。
 それだけの力を込めて、レイモンは掴まれた腕を振り払おうとしているのだ。それなのに大男に掴まれた腕は微動たりともしなかった。
 レイモンの力が弱いわけではない。体格こそ常人より僅かに大きい程度の体付きだが、長年戦士として鍛え抜かれた体は『砂漠の雁』では一、二を争う剛腕である。
 そのレイモンが手首を掴まれただけで全く動けないのである。その男の腕力が桁違いに強いものだということは、酒場にいた野次馬を含め全員が見て取れた。

「ケンカはいけません」
 大男が再び声を出す。その体格通りに低い声。
 しかし、その声はレイモンを諭すように優しい響きがあった。
「ケンカじゃねぇ。聞き分けのねぇ小僧への指導だってんだ」
「暴力はいけません」
 レイモンの屁理屈に大男は律儀に言い直す。
 しばらく大男を睨み付けていたレイモンだったが、大きな息を一つ吐き、力を抜いた。
 小声で「わかったから放せ」と言うと、大男はにこやかに指を広げて見せた。
 大男に掴まれていたレイモンの腕には、跡が手形となって皮膚を変色させていた。
 それを目にした野次馬達は、更に騒つきを大きくする。にこやかに腕を掴んでいただけでそうなるなら、本気を出せばレイモンの腕を骨ごと握り潰すことも可能だったのかもしれない。
「あんた何者だよ?」
 喧嘩の当事者であるが、急な大男の出現で静観していたオーディが聞く。
 元々、本気の喧嘩ではなく、毎度酒場で繰り返していた程度の言い争い。割って入られたことはどうでもよかった。しかし、あまりにも目立つ長身の大男は気に掛かった。
 これ程の身長があれば見かければ嫌でも忘れることはない。このクロセリカの町では見たことがない男だ。
 その紺一色の服装も、どこからどう見ても余所者だ。酒場にいる数十名全員が同じ疑問を持ったのであろう、野次を飛ばすことも忘れ、事の成り行きを見守っていた。

 大男はゆっくりと帽子を取り、それを胸に当てると名乗りを上げた。
「これは失礼を。私はケルケ・カナト。ムルトエ王国ヤドリ中央図書館所属の司書官兼史跡研究員です」
「研究員? ムルトエの学者先生がこんな田舎町に何用で?」
 ニータが聞いた。その目は胡散臭いものを見るかのように大男を流し目にしていた。
 ムルトエ王国とはエルト地方に東接するサーディーン地方の北国だ。
 高温乾燥のエルトとは全く異なり、一年を通じて雪が絶えない寒冷の土地。
 そこはこのクロセリカの町からだと、エルト砂漠を横断し、更に大地が一面、塩で包まれているカタキナ塩地を超えなければ辿り着けない遠方である。
 エルト南方のラカン山脈沿いの行路を取れば、ムルトエ王国の南に広がるオルゲ海に抜けることは可能だが、その行路にしても命がけの行程となる。
 第一、ムルトエ王国は鎖国的な国策をとっており、その出入国には厳しい制限があると聞く。
 そんなムルトエの民がクロセリカの町に現れることなど滅多にない。
 事実、この土地に居着いて五年程となるニータも、ムルトエ人が訪れて来たの初めて見た。
「ムルトエ人かぁ、通りで馬鹿力してやがる」
 レイモンは痛みに変色した手を軽く振っていた。それでもその跡が引く様子はない。
 ムルトエ人は肌が白く、体毛は殆ど無い。そして体格が大きく、力が強いことで有名だった。その大男がムルトエ人であることを証明するかのように、脱帽したその頭には一本の髪の毛もなかった。
 酒場に集まった屈強な『砂漠の雁』の面々からの視線を集めようとも、ケルケ・カナトと名乗った大男は動ずることなく、破顔一笑を見せていた。

「盛り上がっているところ、邪魔するよ」
 ケルケの出現で静まり返った酒場に盛り上がりも何もないだろうに、酒場の入り口付近に小柄な女性が立っていた。
 誰何(すいか)せずとも皆知っている。『砂漠の雁』を束ねる女団長キルビ・レニー、その人だ。
 赤い口紅が目を引く若々しい顔立ちに、これ見よがしに肌を露出した薄着と、戦士団の団長とは思えぬ冷艶な容姿。
 彼女を知らぬ者なら踊り子か娼妓(しょうぎ)と見紛うかもしれない。しかし、彼女にそんな目的で声をかけたものなら、半殺しで済まないだろう。実際、痛い目にあった者は両の指では数え切れぬほどいるらしい。
「レイモン、ニータ、オーディ。三人とも帰還報告もなしに酒場とは、なかなか楽しそうなことを、やってるねえ。私も混ぜて欲しいもんだよ」
 目を細め妖艶な笑みを見せるキルビは、怒気を隠そうとはしない。闘気やら殺気やらが混じり合った視線がオーディ達に突き刺さる。
「キルビ姐さん……。これは……あれですよ、あれ。いわゆる、ちょっと、あの……」
 歴戦の戦士であるレイモン・デルアンが後退る。それは相手がただ団長というだけで起こる行動ではない。
 キルビ・レニーが何故『砂漠の雁』の屈強な男達を差し置いて団長であるか、熟知した上での反応だった。それは年下のキルビを「姐さん」と呼びたくなる力関係をも表している。
 それを横目に「俺は全然飲んでないけどね」とオーディが小声で毒突くも、キルビ団長の眼光が襲い、口をつぐむ。
 命知らずのオーディの失言に野次馬から「おい、口答えするな」という声がそこかしこから聞こえてくる。
 その野次馬達にもキルビ団長は視線を向ける。その不機嫌な眼差しに、野次馬達は潮が引くように『ジェリッサの堀』を飛び出していった。
 蜘蛛の子を散らすかの如きその様子に、キルビの口元は何か言おうと動いたが、尻尾を巻いて帰途につく団員一同に呆れたのか、オーディ達に向き直った。
「まあ、無事に還ったことはいいことさ。私はてっきり裁神のご機嫌を損ねて冥神の御許にさっさと逝っちまったとばかり思ってたけどね。代わりに私のご機嫌を損ねるとはいい度胸だ。一度冥神様にご挨拶に逝ってみるかい?」
 キルビに冷笑を向けられている三人は洒落にならないと、必死に首を横に振る。
「ケルケさん、見ての通りこの大馬鹿共、今日はもう酒が入ってますので、明日改めて話をしましょう。よろしいですか?」
 キルビ団長にしては丁寧な対応が、ムルトエ人の大男、ケルケ・カナトがキルビの客人であることを示していた。
 それはつまり、戦士団『砂漠の雁』への依頼者であることと同じ。
「出来るだけ早い方が助かりますが、仕方がありません。そう致しましょう」
 急ぐ旨の回答の割に、ケルケは丁寧な口調だった。本当に急いでいるのか疑いたくなるが、それがケルケの普段通りなのだろう。
「じゃあ三人共。明日の昼までに詰所に来てもらおう」
 その言葉に、畏まった返事が酒場に響く。返事をしたのはニータとレイモンだけだったが、それで事が済んだとキルビ団長はケルケを連れて『ジェリッサの堀』を出て行った。
 嵐の去った酒場に一時の静けさが広がる。
「全く何なんだぁ? ちょっと機嫌悪いんじゃねぇの?」
 緊張の糸が切れたようにレイモンが漏らした。その機嫌を損ねた一端が帰還報告を怠ったことであるとは頭にないようだ。
「あのムルトエ人が何か依頼してきたんだろうな。どうせ警護か何かだろう」
 ニータが順当な答えを提示する。その声に賛同するはずの野次馬ももういない。御冠(おかんむり)だったキルビ団長から出来るだけ離れようと、皆、家に逃げ帰ったのだろう。ついさっきまで熱を帯びていた酒場は閑散としたものだった。
「チッ……。酒が覚めちまった」
 レイモンは不機嫌に言う。先程までの喧嘩を続けるなんて気になるはずもない。完全な横やり、水入りで、嫌な後味だけが残っていた。オーディも心持ちは同様で、居心地の悪くなった酒場を出るべく席を立った。
「先、帰るから」
 オーディの言葉にニータとレイモンは何も言わず見送った。二人は店に残って飲み直すのだろう。
 店の外に出れば、深遠の夜空がオーディを出迎えた。
 煌びやかな流星が舞いしきる空は、音もなく妙に慌ただしい。常に流れては消える空の光、一瞬たりとも同じ輝きを見せず流れ去る星々を抱え込んで、濃紺の夜空だけはずっと同じ色をしていた。
 あのとき見上げた空となんら変わらぬ夜空に、オーディは悲しい顔を見せ、静かに仮の我が家へと帰っていった。


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